今まで読んだ中で、最も納得がいった対疑似科学本。
P. 177他方、科学と縁を切って暮らせなくなった現代において、科学を盲信する人、科学に反対する人、科学に批判的な人、科学を疑う人、科学の裏をかこうとする人、科学のみに忠実であろうとする人などと、科学に対する反応も実にさまざまである。現代人は、好むと好まざるとにかかわらず、科学に対して何らかの態度表明が迫られていると言える
こういう時代にあって、迷った時にすぐに取り出せるよう手元においておきたい一冊だ。
本書「疑似科学入門」は、「疑似科学に入門」するための本ではもちろんない。疑似科学の門がどのような姿をしていて、そしてそこに入らないようにするにはどうしたらよいかを解いた本である。
目次 - 岩波新書 疑似科学入門より- はじめに
- 第1章 科学の時代の非合理主義―第一種疑似科学
- 1 占い、超能力、疑似宗教
- 2 第一種疑似科学の特徴
- 3 超常現象の心理学―なぜ信じてしまうのか
- 第2章 科学の悪用・誤用―第二種疑似科学
- 1 科学を装う手口
- 2 第二種疑似科学の内幕
- 第3章 疑似科学はなぜはびこるか
- 1 科学へのさまざまな視線
- 2 自己流科学
- 3 科学と非合理主義
- 第4章 科学が不得手とする問題―第三種疑似科学
- 1 複雑系とは何か
- 2 地球環境問題の諸相
- 3 複雑系との付き合い方
- 4 予防措置原則の応用
- 終章 疑似科学の処方箋
- 1 疑似科学は廃れない
- 2 正しく疑う心
- 3 疑似科学を教える
- 4 予防措置原則の重要さ
- 5 科学者の見分け方
- 参考文献
- あとがき
本書の第一の特長は、疑似科学そのものに対して「科学的」アプローチ、すなわち「分類と分析」をとったことである。著者は疑似科学を以下の三種類に分類している。
v - vi《第一種疑似科学》
現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)につけ込み、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えもの。
占い、超能力、超科学、「疑似」宗教系などが該当する。
《第二種疑似科学》
科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの。
永久機関、ゲーム脳、マイナスイオン、健康食品などなど、ビジネスがらみで多いのがこちら。
《第三種疑似科学》
「複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの
地球温暖化、狂牛病、遺伝子組み換え作物、地震予知など、現代の社会問題の多くがここに入る。
本書の第二の特長は、疑似科学の信者たちに対しきちんと対話を試みていること。著者はそれぞれの疑似科学を信じてしまう人々に配慮しつつ、それらを丁寧に、しかし毅然と批判していく。この「低い粘り腰」にまず感銘を受けた。疑似科学を上から目線で批判している対疑似科学書が多い中、この「対話を諦めない」いう姿勢は、私も含め他者も多いに見習うべきだろう。
そして本書の第三の特長として実に画期的なのは、今までの対疑似科学書(本のみならずWebページも含む)が「好んで」取り上げてきた「第一種疑似科学」および「第二種疑似科学」のみならず、「現代科学のアキレス腱」とでもいうべき「第三種疑似科学」まできちんと取り上げたことだ。第三種疑似科学は、三種の疑似科学の中で「最も科学的」であり、それであるが故に最も「たちが悪い」。なにしろ、そのほとんどが「反体制派」によってなされている第一種および第二種と異なり、第三種には「体制派」も含まれているからだ。
P. 141また、水俣病訴訟では最高裁判決で、原爆訴訟ではいくつもの一審判決で、これまでの患者認定基準を改訂すべきことが勧告されたにもかかわらず、環境省や厚生労働省は頑に従来の基準を改めようとしていない。
しかし、役人は古い基準の確固としたものとして遵守し、新しい基準の要請には「科学的に証明されていない」として改めようとしないのだ。これも人間が複雑系であることを理解せず、疑似科学に固執していると言うべきだろう。
こうしてまとめられた著者による処方箋は、残念ながら、しかし当然ながら、キレのいいものとはなりえない。
P. 175処方箋といいながら、まずのっけから敗北宣言である。疑似科学は、いつの世にあっても性懲りもなく生き長らえるだろう、と言わざるをえないからだ。
しかし絶望するのはまだ早い。実は著者の処方箋は、s/科学者/プログラマー/gとすれば、全てなりたつものばかりでもあるのだから。著者の処方箋に少し手を入れると、以下のようになる。
- バグはなくならない
- 正しくデバッグする姿勢
- バグを教える
- 予防措置原則の重要さ
- プログラマーの見分け方
私は、「バグのないソフトウェア」を信じない。しかし、バグを報告したり、直してくれたりする人々が存在することもまた知っている。ソフトウェア、特にオープンソースは、そうやって進歩してきた。科学の進歩の様子と、ソフトウェアの進歩する過程というのは驚くほど似ているのだ。
私はだから、科学そのものを全面的に信用することは出来ないけれど、科学者たちが日日それを「デバッグ」していることを信じることが出来るし、明日の科学が今日の科学より「よく」なっていることを信じることができる。
私にとっては、それで充分だ。
しかし、私にとってそれが充分なのは、私が科学者ではないが現役のプログラマーであるからでもある。「疑うことを信じる」を体得するには、やはり実践が欠かせない。結局のところ、疑似科学が発生するのは、つまるところPDCAサイクルを端折りたいということにあるのだから。
科学者ならずとも、どこかで手を動かしていれば、疑似科学というのは不治ではあるが致命的でない病としてつきあっていけるのではないだろうか。
手を止めないこと、それが私にとっての予防措置原則の実践なのだ。
Dan the Man in the Age of Science

○”堕してしまう”
でした。
失礼致しました。