まずはこちらから。MouRaの黒田様より献本御礼。
読了して、はっと理解した。
なぜ、日本はロボット、いやアンドロイド研究開発においてこれほど世界を先行しているのかが。
本書「人とロボットの秘密」は、フリーランスライターである著者が、まさにフリーにフィクションのロボットとノンフィクションのロボットを行き来しながら、ロボットを通して人とは何かを考察する一冊。これぞフリーランスライターの面目躍如。専門家では、これほど自由に思考の羽を伸ばすのは難しい。たとえ羽があっても伸ばしていては専門がおろそかになってしまうのだから。
目次 - ロボットの王国|人とロボットの秘密より本書の各章におけるスタイルは、まずフィクションのロボットを取り上げ、それについて考察しながら疑問を煮詰め、それを専門家にぶつけてまた考え直すというもの。なんたる贅沢。おそらくそれぞれの専門分野では手続きを踏まねば逢えない人々に、これであればすんなりと逢うことができる。確かにこれはフリーランスライターの一番おいしいところではある。
しかし、一方的に専門家に質問をぶつけているわけではない。質問について充分考え抜き、参考資料にきちんと目を通した上で質問している。こういう質問者はインタビューを受ける側にとっても最もうれしいものだ。私自身昨今はインタビュワーとインタビュイーを行ったり来たりしているので、これがどれほど心と体においしい体験かは存分に味わっている。やみつきになるんですな、これが。
しかし、本書の「主人公」は、なんといっても著者本人。インタビュイーはあくまで主人公の考えを補足強化するために登場する。そう、兜甲児にとってのマジンガーZのように。
そう。マジンガーZ。実は本書に最も登場するロボットこそ、このマジンガーZなのである。アトムではない。ガンダムでもない。もちろん両者とも登場するが、マジンガーZはある一点において画期的だった。
マジンガーZは、主人公の体なのだ。
「マニピュレーター」としてのロボットは、それ以前にも鉄人28号などで登場する。しかし正太郎君は鉄人に「パイルダー・オン」するわけではない。「人機一体」という日本のマンガ・アニメにおけるロボットの基本形が出来上がったのだ。
ところが、「ロボットと人」という文脈においては、マジンガーZのような「心を持たぬロボット」、というより「モビルスーツ」は「邪道」というより「傍流」なのである。鉄腕アトムのような、心を持つ、心身ともに「人造人間」であるアンドロイドこそが主流なのだが、実は日本のフィクションにおいて、この主流のはずのアンドロイドはマイノリティであり、人間の操縦者が「まとう」「モビルスーツ」がマジョリティをしめている。いや、一つは例外があるか。「セクソロイド」。最近でも「ユリア百式」がある。これはさすがに「抱けて」も「着ぐるめない」。それゆえか本書でもこの話題はスルーされている。
それを除くと、日本におけるロボットは圧倒的に「心抜き」なのである。フィクションだけではなくノンフィクションの世界でも。日本におけるロボティックスは、まず体ありきだったのである。
ところが、これが欧米(ここでは欧+米が成り立つ)では、これはむしろ逆なのである。ロボットは、まず心ありき、なのである。HAL、レプリカント、ドロイド....これらは機械の体だけではなく、機械の心を持っている。欧米では、アンドロイドは「心抜き」には語れない。
もちろん「モビルスーツ」がないわけではない。なんといってもこの言葉自体どう考えても「宇宙の戦士」(Starship Troopers)の「パワードスーツ」から来ている。しかし著者のHeinleinにとってこれはあくまで数ある兵器の一つに過ぎず、「テーマ」にまではしなかった(だから映画では見事にスルーされてしまった。Verhoevenのアホーベン!"Robocop"が出来たのにパワードスーツを端折るなんて!...と憤ると同時に、彼の正しさも原作を読めば納得せざるを得ない。スタジオぬえのパワードスーツがなくてもなりたくのですね、あの作品は。
それ以外のHeileinの作品においては、Mycroft にしろ Dora にしろ、人並みの心と人とは比較にならないほどの知識を持つ人口知性体であり、Asimovのロボットものに至ってはコンピューターすら使ってねえ!反陽子頭脳だもんな。PETスキャンするとオリもロボットになるんすか!?
ハアハア。もちろん、日本でもSFともなると、心を持つロボットは少なくない。特に神林長平の場合はこれが十八番。雪風もラジェンドラも、人とは異質な、しかし確かに「心」と呼べるものを持っている。
しかし、ここで「フィクション」までズームアウトすると、やはり「体だけ」のロボットがひときわ目立つのである日本では。なぜバルキリーは雪風ではないのか。理由はさておき日本においては「体だけ」の「人形」もロボットなのである。
このことは、ノンフィクションのロボットの研究者たちにも、多大な影響を与えている。確かに彼らは口では「アトム」というが、むしろ彼らが作りたがっているのはマジンガーでありガンダムでありスコープドッグでありレオパルドンであり....あ、最後のはちょっと余計か(笑)。
とにもかくにも、日本におけるロボティックスというのは、不思議なほどAIの臭いがしない。まずは手足が動くこと。笑ったり怒ったり出来ること。心は明らかに二の次三の次だった。
しかしこれこそが、心に至る最短距離ではなかったのだろうか。
今やAIは完全に停滞している。演算力はますます上がっているのに、その演算力はますます「道具化」しており、どうやって機械に心を持たせるかというのはどこから手をつけていいのかわからない状態だ。
しかし、体の方は順調に進んでいる。P2はP3になりAsimoになり、今や歩くロボットなら秋葉で買える。こいつらにAL(Artificial Life)をつけて人間と育てたら、ひょっとして心が芽生えるんじゃないか?
というのは言い過ぎにしても、体がどれだけ進歩したかをまざまざと見せつけてくれたのが、もう一冊の「超接写・ロボットの「機構」」である。マイコミの石川様より献本御礼。これを見て私がむしろ思い出したのは、Encyclopaedia Anatomicaだった。本書には人形でないものも混じっているが、それだけによけい「現代ロボット解剖学」がよく見えるようになっている。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」というのはなんだか体育の日のエロい人の挨拶のようでキモく感じる人も少なくないだろうが、元々は「健全な心にこそ健全な肉体がふさわしい」という、心優位の言葉でもある。しかし、この「心による体支配」というドグマが、最近急速に崩れているように感じている。特に大きいのが、「人とロボットの秘密」にも登場する受動意識仮説。これ、21世紀の哲学において最も重要な仮説だと私は「感じて」いる。
404 Blog Not Found:書評 - 脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?我々のほとんどは、何かをする時に、まず「何かをしよう」と意識し、それを行動に移すのだと考えている。これが、能動意識仮説。ところが、最近その逆と考えた方がつじつまがあうという研究成果が多く出されてきた。まず行動があり、意識はその後で「実はそうしたかったのだ」と思い込むというものだ。これが受動意識仮説である。
このことを突き詰めて考えると、自由意志、すなわち心は存在しない、というより体の動きがもたらす現象である、という結論に達するのだ。
これがどれほど「恐い考え」かは、HALやアトムでも理解できるのではないか。
なにしろ、「私」の存在は、現時点においては「神」の存在以上に人類社会の根幹を成しているのだ。法律はその好例で、そこは自由意志の存在をあまりに当然のこととして仮定している。しかし決定論を認めてしまえば、実は法律は不要、というより「物理」という理がすべて「あるがまま」にしてくれるのだから、「倫理」は余計ということになる。そこには「死」はあっても「殺」はない。その人は殺されたのではなく 死ぬべき定めにあったというのであれば、刑法など不要ではないか。
いささか先に進みすぎてしまった。とりあえず言いたいことは、自由意志の是非はさておき、心は体から生まれ、体からしか生じようがないのではないか、ということなのである。ゆえに、日本のロボット研究は実に正しい方向に進んでいるのだ -- 人造精神を宿した人造人体を創るという点においては。
もっとも、そのことが正しいかどうかまではわからない。キャシャーンのような結末が待っていないとは誰が言えようか。
それでも、見てみたい。心を宿したロボットを。
Dan the Wetware
不平も不満も言わない。
肩が触れたとけんかもしないし、
失敗を、腕同士が、責任をなすりつけあったりもしない。
超仕事人
仲良し、ロボットアーム。
というか両腕か。
さっき、ゲーセンで
DJ mania.
2ブースを占領して(1+2Player)を
両手で同時にやる奴見た。
これも、すご腕。