ちくま新書の松本様より定期便にて献本御礼。
これで、確信できた。
齋藤孝の最良の特長は、ロールモデルに対して偏見を抱かない事。
そして、最悪の問題は、ロールとは一体何かを理解していない事。
本書「代表的日本人」は、「代表的」な「日本人」を取り上げる事により、「衰退」した日本人を鼓舞するという、最近の著者の代表的なスタイルのそのまた代表というべき一冊。その代表性のあまりの高さは、目次からも伺い知ることが出来る。
目次 - 筑摩書房 代表的日本人 / 齋藤 孝 著にないので手入力おそらくアンチ齋藤にとって、最もうんざりくるのは、「先人たちはこれほど偉大だったのに、今のおまえらの不甲斐なさときたら」という主張だろう。多かれ少なかれ著者の書にはこの主張が登場するが、最近の著書の方が昔より明らかに多い。本書はまだ少ない方で、「なぜ日本人は学ばなくなったのか」はもう目も当てられない、ゲーム脳のラスボスクラスのレベルである。
著者をはじめとする「日本人は学ばなくなった」仮説がガセであることは、「学力低下は錯覚である」が明快に解説している。超要約してしまうと、「昔も今も学ぶ人の割合は変わらなくても、母数が減れば学ぶ人の数は減る」ということだが、これに著者がオビを書いているというのは、読了後ずいぶんたちの悪い冗談だと思ったものだ。
「学力低下は錯覚である」は統計学的に「昔はよかった」仮説を反証したものであるが、経験則的なものは今までもあった。特に日垣隆のそれは秀逸だ(メルマガによると入院されたとのことだが大丈夫?)。
「父親のすすめ」P. 22昔はしつけがしっかりしていたのに、だんだん衰退してきたという言い方をしているのは、だいたい頭でっかちのインテリの人たちです。自分たちの家庭はまあまあうまく行っているけれど、下々はケシカランというような雰囲気で、学力が低下したとか、しつけが衰退していると眉間にシワを寄せながら騒いでいた人たちは、学歴的には慶應、京大、東大の三つでほとんど一〇〇%収まってしまいます。なぜ早稲田や他校の卒業生は言わないのでしょうか。
見てのとおり、これは著者に限らず特定の人物にたいするあてこすりではない。が著者にぴったりと当てはまる。代表と典型を取り違えるのは、上にあてはまる人々が実によくかかる病気であり、そしてはしか以上に迷惑な病気でもある。
日垣はこう続ける。
結局、自分たちのような人が多く出て欲しいという、かなり自己肯定感の強い人々が「学力低下」を言い募り、ゆとり教育を先導したという事実があります。
ところが、著者に限って言えば、「多く出て欲しい」のは「自分たち」ではなく「偉人」であり、著者はその中に自分を含めていない。そしてその偉人を選ぶにあたって著者ほど偏見がない人は滅多にいない。ゲーテとモハメッド・アリを同列に讃えられる人が他にいるだろうか、私が「『昔はよかった』オヤジ」と著者を捨て置けない理由が、これである。
で、考えてみたのである。「なぜこの人は偉人の(再)発見と賞讃に留めておけばよいのに、『偉人になれ』というパワハラに走ってしまうのか」、と。
ここに、答えが書いてあった。
P. 8この本に登場する人々を単に偉人として尊敬する、というよりは、この人々が命をかけて伝えた「五つの力」を自覚し、継承することを狙いとしている。
ここに「継承」という言葉が出てきた。これでわかったのである。著者がロールをわかっていないということが。もしあなたがオブジェクト指向プログラミングに通じていれば、これでピンと来たかも知れない。
ロール、すなわち役とは、「継承する」、すなわち「なる」= beではないのだ。
役とは、演じる、すなわち「する」 = doなのだ。
プログラミング用語を使えば、著者はis-aとhas-aを取り違えているのである。「する」が適切な場面において「なる」を主張してしまっているのである。
この仮説は、あとがきにおいて検証される。
P. 213ああ、こんな人たちになりたい!
書き終えてみて、改めてそんな思いを抱いた。
これなのである、著者の「病」の真因は。
私は筒井康隆のように書きたいとも思うし、Larry Wallのようにプログラミングについて語りたいとも思うし、そして時には著者のように偉人を見つけ、偉人が著した書を音読してみたいとも思う。「この人のようにやりたい」は無数にあるのだ。しかし、私はその誰にもなりたくない。私がなりたいのはただ一人、小飼弾だ。
しかし、「なる」と「する」を取り違えてきたのは、著者だけではない。プログラマーたちも然り、なのである。オブジェクト指向プログラミングにおいても、継承というのは重要な概念だが、その弊害の大きさも年々強く指摘されるようになってきた。特に「先祖」が複数いる場合というのは、ある対象を処理するやり方=メソッド(method)が先祖によって異なる場合、どの先祖のものを利用するのかという判定がややこしくなるというのが最大の問題である。
そういうこともあって、最近は先祖は一人しか持たず(単一継承 = single inheritance)、その代わり「やり方」だけ他を「まねる」という手法(合成 = composition)がオブジェクト指向プログラミングの主流になりつつある。JavaもRubyもそうである。「偉人になる」のではなく「偉業をする」というわけだ。複数継承(multiple inheritance)だと人格は衝突(conflict)してしまうが、手法(method)だけ移入(import)すれば、この問題は起こらない。
「技化」「○×力」など、著者は数多くのすぐれた手法を開発してきた。これらはいずれも継承することなしに、移入可能である。だから、本書をはじめ、著者の本は著者の主張するように「継承」するのではなく「移入」するのがよい。と同時に、著者はインターフェイスを継承ベースから移入ベースに作り直す(refactor)した方がよい。はっきりいって最近の著者の「下々はケシカラン」ぶりは、見苦しいを通り越して加齢臭がただよってくるレベルに達している。これでは折角の利点が「使えなく」なってしまう。
Dan the Role Player
See Also:
「今上天皇」と書きます。「平成天皇」と呼ばれるようになるのは、
おそらくは死去後のことです。