大西@原書房様より献本御礼。
で、結論。
ケータイ小説を読まない者にとってケータイ小説に対する最も適切な態度は、笑止して放置して無視すること。
本書「ケータイ小説的。」は、これまで書かれたケータイ小説論の中で最も秀逸な一冊。ケータイ小説とその読者に関しては、これ一冊読めばもう事足りる。あとは不要。ケータイ小説も含めて。
目次 - 原書房新刊案内 ケータイ小説的。 - 速水健朗 (04163-3)より
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なぜ、ケータイ小説は笑止後無視でOKなのか。
ケータイ小説は、「別文化」(alternative culture)ではあっても「反文化」(counterculture)ではないからだ。
ロックに限らず、反文化というのは、主文化(main culture)に対する対話要求である。だから、「主文化」側は拒絶するにしても受け入れるにしても、何か反応しなければならない。無反応は失礼に当たる。
ケータイ小説も、そしてそのアナロジーとして本書が取り上げるヤンキー文化も、そうではない。「オトナはワカッてくれない」ということを、オトナの聞こえるところで言っているわけではないのだ。
なぜ、ケータイ小説がケータイで花開いたかも、これでわかる。
そこが、「情景のない世界」だからだ。
blogを含むWeb文化とは、そこが違う。Webの世界は、いやがおうでも対話型になっている。LoverもRobberもそこでは潜在読者。外部リンクが存在しないページですら、興味をもたれたらSBMの「餌食」となる。
ケータイは、そうではない。ケータイは画面が小さいこともあって、「外」をページに入れる余裕がない。そこがよかったのだ。そこが共感できるポイントだったのだ。そこが「リアル」なのだ。括弧抜きのリアルがないことこそ、ケータイ小説的なのだ。
これは、SNS文化と似ていても違う。SNSは、「対話したい相手とだけ対話」したいという文化。これに対し、ケータイ小説は「共感できる話とだけ共感したい」文化。一言で言えば、「思い込みまくれる」文化だ。
このうちどれが良くてどれが悪いというのは、それこそ野暮だろう。いずれも文化であり、いずれも尊重されるべきだ。問題は、それぞれの文化に対し、どう接するのが尊重に当たるかという事である。
「笑止と無視」が、それに相当するのではないか。
その意味において、本書の著者のありようは、良くも悪くもWeb文化的なのだ。
P. 218批評に自由を!ヤンキー文化にもっと光を!
大きなお世話である。ヤンキーたちがいつ光を求めたのだ?そうするのは、彼女たち(ときどき彼たち)が光を求めてからでも遅くない。嫌気性生物に酸素をぶちかますことが彼らのためになるのか?
[を] ケータイ小説的。ちなみに私はケータイ小説を読んだことがありません。
ゆえに、本書の内容についてのコメントは控えます。
ケータイ小説の愛読者の書評を読みたいところ。
一つ確かなことがある。ケータイ小説の愛読者が本書に目を通す事はほぼ絶無だということである。それで、いいのだ。それこそ芥川賞直木賞だのというのはピント外れもいいところだ。
本書は、あくまで「深海の知られざる生物たち」のノリで読むのが正しい。その点においては、著者の文化に対する広く深い理解に感歎せざるを得ない。他の「生物」を知っているからこそ、著者は「21世紀たちのヤンキー」を活写できたのだ。
しかし、「ヤンキー文化にもっと光を!」は大きなお世話だ。彼らは好き好んで光の当たらないところにいるのだ。もし著者がケータイ小説ファンにそんなことを言ったら、「なにこのオッサン、キモッ」の一言でおしまいなのではないだろうか。
誰にだって籠りたい時期や場所がある。ヤンキーたちが一生ヤンキーでいられないように、彼女たちだって一生ケータイ小説でうるうるしていられるわけじゃない。その時期が来たら、改めてどこに光があるのか伝えればいい。少なくとも、今の彼女らは著者や私がいる側の理解も共感も必要としていない。
だから。
ほっとけばいいのである。
それが、大人の作法ではないのか。
Dan the Grown-up
WWW小説やケータイ小説の面白さの一つは同時性にあってSNSやblogとかと共通します。けど、二つはかなり異なる時間スケールを持っている。その時間単位の中で批評や評価、あるいは著者と読者の距離をどう取っていくかは、これから決まって行くのでしょう。そういう面白さはSNSと同じで参加している人しかわからないかも。文化に必要なのは理解と尊重であって、無視ではないです。