大西@原書房様より献本御礼。

で、結論。

ケータイ小説を読まない者にとってケータイ小説に対する最も適切な態度は、笑止して放置して無視すること。

本書「ケータイ小説的。」は、これまで書かれたケータイ小説論の中で最も秀逸な一冊。ケータイ小説とその読者に関しては、これ一冊読めばもう事足りる。あとは不要。ケータイ小説も含めて。

目次 - 原書房新刊案内 ケータイ小説的。 - 速水健朗 (04163-3)より
■第1章 「情景」のない世界
ケータイ小説のキーパーソン
『恋空』に見る、浜崎あゆみの影
『赤い糸』という題名はどこから来たのか
携帯電話の普及とそれを司る女神の存在
「コギャル」の教祖から「女子高生」のカリスマへ
回想的モノローグと『NANA』『ホットロード』
『ホットロード』と浜崎あゆみ
あゆとユーミンの歌詞の違い
歌詞への共感、オンナ尾崎としてのあゆ
「笑わない歌姫」の系譜
あゆのレイプ疑似体験とトラウマ語り
■第2章 ケータイ小説におけるリアルとは何か?
本当にレイプやドラッグがリアルなのか?
学校図書館はケータイ小説をどう捉えているか?
「リアル系」と「ケータイ小説のリアル」
リアル系、不幸表明ノンフィクションの流行
『ティーンズロード』とケータイ小説の類似性
不幸自慢のインフレスパイラル
コミュニケーションから生まれるケータイ小説
不良少女像の変遷
ヤンキーを駆逐したコギャル
浜崎あゆみから始まるヤンキー回帰
ヤンキー文化と相性のいい相田みつを
ケータイ小説の文化的背景のまとめ
■第3章 「東京」のない世界――ヤンキーの現在形
ケータイ小説における「東京」の欠如
上京という概念が存在しない漫画『頭文字D』
援交するヒロイン
ケータイ小説の登場人物に見る職業観
横文字への憧れのない世界
「東京に行かない」感覚とは何か
復活する「地元つながり」
広義のヤンキーについて
DQNとヤンキーの違い
暴走族と連合赤軍はどう違うのか?
尾崎的な反抗から、浜崎的な内面対峙へ
牧歌的なヤンキー漫画の時代が終わった九〇年代末
ファスト風土的な郊外から生まれた新しい文化
ショッピングモール内の大型書店こそ本丸
出版を通じて日本人が形成される
■第4章 ケータイが恋愛を変えた
ケータイ小説のリアルなリアル!?
DVとデートDVの違い
『恋空』に見るデートDV描写
「妊娠小説」としてのケータイ小説――すぐに結婚したがる男たち
暴力の理由は愛情なのか?
ケータイ小説で恋人が死ぬ理由
携帯電話の普及がデートDVを生んだ?
携帯メール依存症と「つながること」を希求する若者
変体少女文字と「つながり」重視のコミュニケーション
AC系の潮流の中のケータイ小説
『NANA』にみるACの傾向と「優しい関係」
「優しい関係」における性愛の問題
恋愛小説が顕著に映し出す時代の変化
オールドメディアへ想いを託す彼女たち

なぜ、ケータイ小説は笑止後無視でOKなのか。

ケータイ小説は、「別文化」(alternative culture)ではあっても「反文化」(counterculture)ではないからだ。

ロックに限らず、反文化というのは、主文化(main culture)に対する対話要求である。だから、「主文化」側は拒絶するにしても受け入れるにしても、何か反応しなければならない。無反応は失礼に当たる。

ケータイ小説も、そしてそのアナロジーとして本書が取り上げるヤンキー文化も、そうではない。「オトナはワカッてくれない」ということを、オトナの聞こえるところで言っているわけではないのだ。

なぜ、ケータイ小説がケータイで花開いたかも、これでわかる。

そこが、「情景のない世界」だからだ。

blogを含むWeb文化とは、そこが違う。Webの世界は、いやがおうでも対話型になっている。LoverもRobberもそこでは潜在読者。外部リンクが存在しないページですら、興味をもたれたらSBMの「餌食」となる。

ケータイは、そうではない。ケータイは画面が小さいこともあって、「外」をページに入れる余裕がない。そこがよかったのだ。そこが共感できるポイントだったのだ。そこが「リアル」なのだ。括弧抜きのリアルがないことこそ、ケータイ小説的なのだ。

これは、SNS文化と似ていても違う。SNSは、「対話したい相手とだけ対話」したいという文化。これに対し、ケータイ小説は「共感できる話とだけ共感したい」文化。一言で言えば、「思い込みまくれる」文化だ。

このうちどれが良くてどれが悪いというのは、それこそ野暮だろう。いずれも文化であり、いずれも尊重されるべきだ。問題は、それぞれの文化に対し、どう接するのが尊重に当たるかという事である。

「笑止と無視」が、それに相当するのではないか。

その意味において、本書の著者のありようは、良くも悪くもWeb文化的なのだ。

P. 218
批評に自由を!ヤンキー文化にもっと光を!

大きなお世話である。ヤンキーたちがいつ光を求めたのだ?そうするのは、彼女たち(ときどき彼たち)が光を求めてからでも遅くない。嫌気性生物に酸素をぶちかますことが彼らのためになるのか?

[を] ケータイ小説的。
ちなみに私はケータイ小説を読んだことがありません。
ゆえに、本書の内容についてのコメントは控えます。
ケータイ小説の愛読者の書評を読みたいところ。

一つ確かなことがある。ケータイ小説の愛読者が本書に目を通す事はほぼ絶無だということである。それで、いいのだ。それこそ芥川賞直木賞だのというのはピント外れもいいところだ。

本書は、あくまで「深海の知られざる生物たち」のノリで読むのが正しい。その点においては、著者の文化に対する広く深い理解に感歎せざるを得ない。他の「生物」を知っているからこそ、著者は「21世紀たちのヤンキー」を活写できたのだ。

しかし、「ヤンキー文化にもっと光を!」は大きなお世話だ。彼らは好き好んで光の当たらないところにいるのだ。もし著者がケータイ小説ファンにそんなことを言ったら、「なにこのオッサン、キモッ」の一言でおしまいなのではないだろうか。

誰にだって籠りたい時期や場所がある。ヤンキーたちが一生ヤンキーでいられないように、彼女たちだって一生ケータイ小説でうるうるしていられるわけじゃない。その時期が来たら、改めてどこに光があるのか伝えればいい。少なくとも、今の彼女らは著者や私がいる側の理解も共感も必要としていない。

だから。

ほっとけばいいのである。

それが、大人の作法ではないのか。

Dan the Grown-up