ああ、やっとこの本を紹介できる。
初出2008.07.17; 「課題図書」につき暫く更新
本当はすぐにでも紹介したかったのだけど、この「方法」に対する私の理解が正しかったのか、「検算」してからそうしたかったのだ。そして今日、著者本人に検算していただく機会を得た。「間違い」ではなかったという確証以上のものを得る事が出来た。
日本を知りたかったら、まずこれを読め!
だけど、「100冊読むよりこの1冊」なんてことは言わない。
それは、日本という方法ではないのだから。
本書「日本という方法」は、私がこれまで読んだ日本論の中で、心身ともに最も腑に落ちた一冊。The Bestである。そしてこの本を読んだ事で、読書欲がますます高まった。なぜ数多の良著のように、「他のクソ本は捨て、この本を極めよう」ではなく、「もっと本を読もう。クソ本を恐れずに」となったのだろうか。
それこそが、日本という方法だからだ。
目次 - ISIS より- 第1章 日本をどのように見るか
- 第2章 天皇と万葉仮名と語り部
- 第3章 和漢が並んでいる
- 第4章 神仏習合の不思議
- 第5章 ウツとウツツの世界
- 第6章 主と客と数寄の文化
- 第7章 徳川社会と日本モデル
- 第8章 朱子学・陽明学・日本儒学
- 第9章 古学と国学の挑戦
- 第10章 二つのJに挟まれて
- 第11章 矛盾と葛藤を編集する
- 第12章 日本の失敗
- 第13章 失われた面影を求めて
それでは、「日本という方法」とは何か? 要約というのであれば、俳句どころかひらがなで七文字に収まってしまう。
P. 10一途で多様
これが著者による最も短い要約。
こんなのある
P. 12および第11章絶対矛盾的自己同一
by 西田幾太郎
「俳句化」すると、こうだろうか。
そう。「日本という方法」を単にお品書きするだけであれば、いくらでも要約できるのである。しかし、その要諦は「要約の否定」いや、「要約の寸止め」なのだ。だから、「もっと読みたく」なるのだ。
優れた本というのは、そのほとんどが自己相似的な構造をしている。書名を「展開」すると目次になり、目次を「展開」すると「本文」になる。本書はその点においても実に優れた本で、「日本という方法」という書名だけでも「わかる人はわかる」し、「わかる」にも関わらず、いや「わかったからこそ」読み進めずにいられないのだ。本書のすみからすみまで、そして本書を越えて。
また、優れた本というのは大いに自己言及的でもある。本書は、日本有数の本読みにして希代の編集者である著者が、「日本という方法」に沿って著したのが本書なのである。これが面白くて役に立たないわけがない。
しかし、この「日本という方法」は、「方法」であるのと同時に「方法論の否定」、いや「否定の否定」でもある。排中律では単に「肯定」であるが、しかし単純な「肯定」ではない。あくまで「否定の否定」なのだ。否定しないこと、すなわち一様でないことに一途なのが、日本という方法なのだ。
飽きれたことに、これは「一様であることことがたった一つの冴えたやり方」が成り立つ、工学の分野においてすら事実なのだ。電力の周波数が二つもある国が他にあるだろうか?電圧やソケットの形というなら他にも例があるが、電圧やソケットの形はユーザー側でも対処できる、「安価な多様性」だが、周波数というのは発電機で決まってしまうのでむっちゃ高額な多様性である。
この点において泣けるのが文字コード。主なものだけでなんと四つもある。ISO-2022-JP、Shift_JIS, EUC-JP, そしてUnicode。これを相互変換するためのプログラムを私が担当しているというのはご存じかもしれない。
そう。実は「日本という方法」は、極めて高コストな方法でもあるのだ。この方法がこの国で育まれた理由がまさにそれだろう。放っとけば雑草が生い茂るような豊穣な地でないと、この方法を育む余裕はないのだ。一神教が砂漠で生まれたのは偶然ではない。神様を何人も置くような余裕はそこにはなかったのだ。
しかし、豊穣な地というのであれば、別にこの島国でなくともいくらでも存在する。しかしそういったところのほとんどが、「唯一神という方法」に占拠されてしまった。一神教は迷いがない分、強い。そしてひとたび戦ともなれば、迷いが少ない方が強い。こうして大陸は「唯一神という方法」にあらかた占拠されてしまった。
幸いなことに、日本は島国だった。いくら豊穣でも、そこに行き着くのは至難の業。それも、ブリテン島のように泳いで渡れるほどの距離ではなく、水平線の向うである。それでも島伝いであれば、何とか行けるものの、大軍を送り込むのは無理で、たまに「新しい方法」が流れ着く程度。しかも流れ着いた方法はすぐに優れた「おもかげ」を取り出された上、もっと優れたものに「うつろって」しまう。それが鉄砲であろうがクルマであろうが。
そんなわけで、この「日本という方法」はこの島国でねんごろに育まれてきたが、今、この方法は未曾有の危機に直面している。それも一つでなく二つも。世界のフラット化と少子高齢化だ。
前者は言うまでもないだろう。コンテナ船に747にインターネット。島だった日本に架かる橋がこれほど多かった時代はなく、そして今後もこの橋は増え続ける。鉄砲を真似されたポルトガル商人は悔しがるしかなかっただろうが、ディズニーは著作権で守られている。これが、「おもかげ」の危機。
そして、少子高齢化。日本がこれまでうつろい行くことが出来たのは、うつろう人々がいたからだ。そしてそれはほぼすべての場合、それは現状に満足できぬ若い人々だった。知恵と経験では劣っても、数と熱意に勝る彼らが、日本をうつろわせてきた。今、このサイクルが停滞し、ものによっては逆転しつつある。これはまさに日本が「日本」を自覚して以来の危機ではないだろうか。人口は確かに今までも増減してきたが、これほど「頭でっかち」になったことはかつてなかったのだ。「うつろい」もまた危機に瀕している。
しかし、この日本という方法が生き残れるかどうかが、世界が、そう世界が今後うまくやっていけるかの分かれ目になると私は踏んでいる。特に重要なのは、世界が貧困を克服した後だ。その後に世界が平和にやっていけるかどうかは、世界に日本という方法をインストール、いやプラグインできるかどうかにかかっている。今はまだその時ではない。が、その時が来た時、日本という方法は生き残っているだろうか。
残念ながら、現時点において日本という方法の維持費は、日本人しか負担していない。たまたま日本には豊かな人々が大勢いたおかげで、この方法は保たれていた。しかしそのどちらも失われつつあるのだとしたたら、我々はおもかげを残しつつうつろい続けることが出来るだろうか....
今更紹介するまでもないだろうが、著者はあの千夜千冊の中の人。あれだけの読書量がないと、本書を編む事は出来ない。しかし、著者は本書を著し切っていないし、編み切ってさえいない。本書はまぎれもない松岡正剛の作品でありながら、いや松岡正剛の手によるものであるからこそ、そこで用いられた素材はその味を全く損なっていないのだ。
まるで、日本の料理のように。
P. 1067私の最も好きな「日本という方法」です。のちに岡倉天心は「あえて仕上げないで、想像力で補う」といいました。もっとわかりやすくいえば、そこに水を感じたいから抜いたという、あの枯山水の方法です。
そう。そこに水を見いだすのは、読者たるあなたの仕事である。だから、本書は Consistent (首尾一貫)で Comprehensive (完結)な良著の対極にある。
わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる: ドラッカー「マネジメント」はスゴ本そこらで1,500円で売っている「ビジネス書」は、本書の一部をうす〜くのばして「再利用」していることに気づく。広い世の中、「ビジネス書を読むのがシュミ」なんて変わった御仁もいそうだが、100冊のビジネス書より、1冊の本書を使うべし。
本書はそれより安い1,200円。本書を見ると、本の値段とは一体何なのだという気分にさせられる。しかし、本書という「おもかげ」は、「うつろい」を読者に求めずにはいられない、100冊どころか1,000冊,10,000冊、100,000冊と渉猟せずにはいられなくなるのだ。
日本という方法を、求めて。
Dan the Japanese by Method
ただ、高コストに耐えるためには、それだけの経済の裏づけもあるということだと思います。
なにより、平安時代初期には、東北地方でもほぼ、水稲栽培が広く普及していたことが最大の経済の裏づけだろうと思います。米は、単位農地面積当たりの収量が大きい。つぎに、日本中の鉱山からおびただしく湧いて出てくれた大量の金銀銅。これが、長い間「日本という方法」を支えてくれたのでしょう。
一方、日本なりの低コスト化の工夫もありました。ひらがな、カタカナの発明、念仏宗の普及など。それに、日本からあれほど貴金属が生産できた割には、長い間、宋銭、明銭に依存していて、自前の通貨をまともに市場で通用させるコストをなかなか支払おうとしなかったみたいです。
明治時代に「日本という方法」を可能にしてくれたのは輸出用の絹糸。現在の日本で、「日本という方法」を可能にしてくれているのは、海外で引っ張りだこの日本アニメ?