あーよく死んだ。丸一日半死んでた。
そろそろ起きるか。
「空気を読むのはやめましょう」と言うのはやめましょう
と、長女にさえKY認定されている私が言うのもなんですが、その私が言うのだから一段重いというものです。
発言を額面どおりに受け取る - タケルンバ卿日記これを「3つの読まない」と申します
- 「空気を読むのはやめましょう」
- 「行間を読むのはやめましょう」
- 「言外のことを読むのはやめましょう」
「読むな」と言ったところで、実のところ「誰が言ったか」と「いつ言ったか」は読まずにいられない、それが人という生き物。「空気」「行間」「言外」がいやなら、「文脈」と置き換えてもいい。で、文脈を「空気」「行間」「言外」に書くなとなると、文脈相当の「背景」をすべて「書き出さねば」ならなくなってしまう。
これをきちんと実行するとどうなるか? 1+1 を証明するだけで1000ページ以上も書かなくてはならなくなってしまう。
ホワット・ア・ワンダフル・ワールド 1+1=2を証明するためには1万ステップ以上かかるよ,という話数学の基礎付けに関する 20 世紀の記念碑的偉業と称えられながらも,歴史上何人がこれまで読破したのか,と常にネタにされる Principia Mathematica (12 万円,2000 ページ!) に,1+1=2 の証明が載ってるっていうのはわりと有名な話だと思いますけど.
すると当然のことではあるが、今度はその分量ゆえに読まれなくなってしまうのだ。
そもそも「空気を読むのはやめましょう」の「空気」にしてからが、文脈がなければ解読不能な文章である。「空気を読めば」それが「雰囲気」であることを察する事ができるが、それを無視すると「もしかしてこの空気は窒素80%弱、酸素20%、アルゴン1%、そしてその他もろもろからなるコレのことか」という可能性を却下できない。空気を読まぬことで余計空気を読む羽目になってしまうのだ。
404 Blog Not Found:ダメな議論飯田氏は、もっとも見苦しい論法として属人論法を挙げる。属人論法というのは、以下のような論法のことである。
p.109批判する相手が学者や官僚であれば「実社会の経験もないくせに...」、大企業の役員であれば「エリートの論理だ...」、若手のIT長者に対しては「成金の考えることは...」などと発言者の経歴に合わせて、いくらでも批判の言葉を考えることができます。議論の参加者、あるいは傍観者としての私は、この批判に大賛成である。しかし決断者、そして責任者としての私は、属人論法を切り捨てられない。なぜ我々が属人論法、すなわち「何を言ったか」よりむしろ「誰が言ったか」を気にするかといえば、その属人性こそがその言葉の担保となることが多いからだ。外れても制裁のないconclusionと、外れたら制裁が待っているcommitmentでは、やはり重さが違うではないか。
結局のところ、書き手としての心得は、読み手に「属人論法化をやめろ」を含め、読み方を指図することではなく、「空気」「行間」「言外」の「勝手読み」を許しつつ、充分な数の「伝わった読者」を得る事をもってよしとする事にあるのだと考えている。
残虐な優しさは21世紀にも成立するか?
「相手にこう思われたらどうしよう」を、捨てよう。 - GoTheDistance僕の持論に、「人間は残酷な人ほど優しくなれる」というのがあります。残酷な人ってね、相手がどう思っていようか全く関係ないんだよ。相手の気持ちなんて関係ないの。自分が好きだから言葉を尽くして気持ちを尽くすんだけど、「ああ、もうこの人はこれ以上のことは伝わらないんだな」って思ったその瞬間から、一切手を引くことが出来る。未練がましい人は、相手にかけた気持ちや時間とか時にはお金に執着する。残酷な人は、そういうものは持ち合わせていない。これ以上はダメだと思ったその瞬間から、プッツリと気持ちを切ることが出来る。優しさってそういうものなんだと思うんだ。相手の状態がどうであれ、出来る限りのことを自分がする。それでもダメって思ったら、後ろ髪を引かれながらも背中を向ける。
これには恰好の実例がある。ペリクレスだ。
「男の肖像」P. 15ある時、いつものようにアテネの中心広場で執筆中のペリクレスが、一人の下劣な男につきまとわれたことがある。
この男が非難や悪口を浴びせかける間、ペリクレスは、黙ったままそれを忍び、仕事をさばいていった。夕方になってから服装をととのえ家に帰るのを、その男は後を追ってきてまで罵言を浴びせる。家に入ろうとした時には既に暗くなっているのに気づいたペリクレスは、召使いの一人に灯をもたせ、その男を家まで贈るようにいいつけた。
見ての通り、この残虐な優しさは、力量の圧倒的な差があって初めて成立する。その力量の差がどこに現れるかと言えば、それこそがまさに「空気」なのだ。この哀れな男は、最初から最後までペリクレスの空気の中にいたのだ。「空気を読ませぬ」唯一の方法は、実は「空気を全て自分で用意する」ということである。それほどの力量の持ち主というのがこの21世紀に存在するだろうか。
実は一カ所だけ、存在する。
「相手にこう思われたらどうしよう」をどこに捨てるか
それが、「過去」である。こればかりは、ペリクレスですら変えられない。
そして、これが最初の設問の答えである。
「相手にこう思われたらどうしよう」をどこに捨てるか。
blogに捨てれば、よいのである。
blogを書いた自分は、その時点で過去の自分である。どれほどつまらないことでも、どれほどすごいことでも、それを書いたのは今の自分ではなく過去の自分。「下劣な男」がどれほどつきまとおうとも、それは過去の自分につきまとっているのであって現在の自分ではない。くれぐれもそれを現在の自分と勘違いしないように。それでは「下劣な男」と一緒である。
空気は読まれずにいられない。それを知るあなたは、「相手にこう思われたらどうしよう」と思わずにはいられない。「するな」と嘯いたところで、この二つはいなんともしがたい。
しかし、過去の自分を他人化することは、できるのである。
過去の自分に粘着する「下劣な男」たちを「今」から見下すことが、出来るのである。
Dan the Blogger in Progress
空気読み続けても人生やってらんないし、
空気読まなすぎでも人生やってらんない。
生物の真理とは言わないが、適応して進化してきた種が生き残ってきたというのもあながち間違いじゃないと思う。