晴天の、霹靂。
千夜一夜の皆様
nineHalf大人さんこと重松義行さんは、9/28 22:40 癌のため死去されました。
享年56才でした。
ここに生前のご厚誼を深謝し、謹んでご通知申し上げます。
未だ私の心は覚醒剤と麻薬を同時に打ったらこうなるのではないかという混沌の中にあるが、その混沌をも含めて彼への思いを綴っておくことにする。
ディーエイエヌ有限会社の唯一の社外取締役。直美と弾の婚姻届の証人。
私が彼から受けた恩は、散文的なものを並べただけでも見まがいようがない。
しかし彼は、私にとって誰よりも「父」だった。生物学的な「父」ではもちろんない。が、一般名詞としての「父」であり、そして「善なる父性の象徴」であり、そして「父としてのロールモデル」だった。
この人がいなければ、私が夫のなることも二児の父となることもなかっただろう。
私が彼に出会ったのは、今は亡き Nifty-Serve でのことだった。当時私は22歳。全焼した実家の庭のプレハブ小屋からアクセスしていた。当時の私はただのドロップアウト以外の何物でもなかったが、「ダンコーガイ」的な要素はすでに備えていたように当時を振り返って思う。しかし、一つ決定的な何かが足りなかった。
宛名付きの、善意とでも言おうか。
「弾言」P. 049世界は「無記名の」善意に満ちている
人が特定の誰かを助ける、そういう善意は手に入れにくくなっていますが、その代わり今の世の中は「無記名の善意」に満ちていると僕は思っています。「無記名の善意」というのは、特定の誰かのために作られたのではないモノすべてです。例えば、道路やネットは誰が利用してもいい。本も、特定の個人を対象にして書かれているわけではありませんから「無記名の善意」です。誰でも利用できるツールがこれほど充実している時代は、歴史上なかったでしょう。
そんな無記名の善意ばかり使って生きていた私には、生きる力はあっても、生きる欲がなかった。ましてや、命を分かち合い、そして命を与える欲など。生命力はみなぎっているのに、それをどこに振り向けるべきか全くわからず、そして全く考えていなかったのだ。
そんな私に、そっと、しかしはっきりと方向付けをしてくれたのが、彼だった。
一流の料理人。一流の仕事人。そして、一流の父親。
出会った時の彼は、ただただまぶしかった。「こんなのありえねえ」とすら思った。そして、彼を(本当の)父とする彼の子供たちがただただうらやましかった。
なぜ彼はそんな私を「息子」として受け入れてくれたのだろうか。
その答えを言う前に、彼は逝ってしまった。
しかし重要なのは答えではない。彼が私を「息子」として受け入れてくれた事実そのものだ。彼があって、私は初めて「父性愛」なるものが実存することを知ることが出来た。
私は、彼にわが命よりも大事なものを授けてくれたのだ。
自分の命は、自分だけのものではないこと。
しかしそれは、自分のらしく生きることと矛盾しないところか、ますます自分を自分らしくすること。
そして、そういったことを一切名言せずとも、それを体現していていれば、それは誰かに着実に伝わること。
彼はRandy Pauschと同じ病気で亡くなった。享年56歳。Pauschと違うのは、最後の授業を行わなかったこと。そのそぶりさえ見せなかった。必要なかったからだろう。Pauschの子供たちがまだ幼いのに対し、彼の子供たちは、(私を含め)皆成人している。成人であれば、答えは自ら探さなければならないのだから。
今の私は、当時彼が私と出会った時と同じ年齢である。くやしいかな、当時の彼の域にまだ私は達していない。とても「赤の他人」の「父」となるだけの雅量はない。
でも、「兄」ぐらいならなれるかも知れない。
生きて、行こう。
直美の夫として。はずみときわみの父として。そして誰より小飼弾として。
重松義行が、そうしたように。
それが、直美やはずみやきわみやそして自分自身以外をも含めた、弾と縁ある人々にとってももっとも弾を活かすことなのだから。
それが私のような莫迦息子にもわかるようになるまで
生きていてくれたことに
ありがとう。
Dan the Beloved Son of Yours
ご冥福をお祈りします。
ネット検索でこのページにたどりつきました。
重松さんのご家族とは面識もありませんので、
突然のご挨拶もどうかと思い、この場を勝手に
お借りします。
残念なことです。ご冥福をお祈り致します。