著者より献本御礼。

NED-WLT : 新刊、『英会話ヒトリゴト学習法』が出ます。
この疑問について、あくまで仮説ではありますが、僕なりに満足する解答を得ました。英会話の力は、たとえ完璧な自動翻訳機ができたとしても、その重要性は色あせません。この仮説が、日本人の英語力の底上げにつながることを夢見つつ、英会話の力を養うための具体的な学習法をまとめたのが本書です。

著者の本としては、最も役立てづらく、しかしそれだけに面白かった一冊。

本書を読んで英会話が出来るようになるのは、「はじめての課長の教科書」を読んで課長になるより難しいと弾言しておく。「本書を読んでも英会話がうまくなりませんでした」というのはお門違い。

そんな「小さな」ことではないのだ、著者の真意は。

本書「英会話ヒトリゴト学習法」の主題は、英会話、ではない。「課長の教科書」の主題が、実は「課長」ではないように。

本書の主題は、なんと人格なのである。

目次 - Amazonより
理論編
  1. 英語を学習する理由
  2. 英語の学習はなぜ難しいのか
  3. スピーキングはなぜ特に難しいのか
  4. 英会話ヒトリゴト学習法
  5. ヒトリゴト学習法の理論的なポジショニング について
実践編レベル1 ヒトリゴトによる基本語彙の形成
  1. 学習法の背景(レベル1)
  2. ヒトリゴト学習法(レベル1)
実践編レベル2 ヒトリゴトによる発音の矯正
  1. 学習法の背景(レベル2)
  2. ヒトリゴト学習法(レベル2)
実践編レベル3 ヒトリゴトによるビジネス思考の訓練
  1. 学習法の背景(レベル3)
  2. ヒトリゴト学習法(レベル3)
発展編
  1. ヒトリゴト・パートナーを探そう
  2. 文法の世界の、恐ろしいまでの奥深さ
  3. 語源を探る面白さ
  4. 英会話学校について
  5. 短期留学を考える
  6. 英語で夢をみる
解説 赤松 武(外務省国際協力局政策課)

著者は、「一言語一人格」を説く。速い話、一つの人格が話せる言語はたかだか一つであり、多言語を話せる人の中には少なくともそれだけの人格がいる、ということである。

さすれば、英会話を学習するためには、英語だけ話す人格を「一人」育てなければならない。そうするためにはどうすればよいか、というのが本書のHowの部分であるが、「特定の機能のために特定の人格を育てる」という考えは、英会話でなくても成立する。「課長」でなくても「課長の教科書」が成立するように。

著者の魅力は、なんといってもこの「本質」をそのまま書くのではなく、「課長」や「英会話」といった、よく知られた、しかしよく知られるだけにこういう「乗せ方」がなかなか思いつかない、意外な「乗り物」に乗せて出すところにある。この意外性ゆえに、著者の言葉は忘れられないものとなっていくのだ。

この「一言語一人格」というのは、さらに細かく「一機能一人格」になるかも知れない。私の実感としてはそうだ。同じ英語を話すときでも、毒づくときと論文を書く時では別の人格が担当していることを私ははっきりと感じ取ることが出来る。

いや、今これを書いていること自体、「脳内会議」の産物である。私の場合、「一人」で考えることはほとんどない。いろいろな「立場」で考えているそれぞれの人格が実存のように認識できるのだ。

しかしそれだと、肉体というハードウェアをどの人格にまかせるかという競合が起きる。私の場合は、「書記人格」が「何人」かいて、それが「脳内会議」をまとめている。ただし「乱暴」な人格が多いので、時々「マイクを奪う」ようなことがおきる。これがちょっとした私の悩みである。

ところで、英語では「個人」のことを"individual"という。以下がOADによる語源(etymology)である。

ORIGIN late Middle English (in the sense [indivisible] ): from medieval Latin individualis, from Latin individuus, from in- ‘not’ + dividuus ‘divisible’ (from dividere ‘to divide’ ).

そう。「これ以上分けられないもの」とある。個人というのはここではAtomicな存在ということになる。

しかし「原子」が実は陽子と中性子から成り、そしてその陽子や中性子がクォークから成り立っているように、individualはatomではない。私にとってこれはしごく当然のことで、むしろ「なぜatomicでない人格群が、自己同一性を保っていられるのか」の方がよほど不思議なのであるが、とりあえずその点はさておき、「alter egoを育てればこういう利点がありますよ」というのが本書の主張である。

その点において、英会話というのは実に巧妙な「かくれみの」である。日本人にとって英会話というのは「ハイコスト・ハイリターン」な技能の代表として扱われている。コストも大きいがリターンも大きい。このコストの大きさ故に、リターンを得る段階を前にして過半の人々が脱落する。

しかし、英会話が単なる技能ではなく実は人格だとしたら?

今までかけてきた、そしてこれからかけるであろうコストも正当化されうるのではないか。「会話人格の形成」が一種の「子育て」だとしたら、それに匹敵するコストすら容認しうるのである。

オビより
英語ができるビジネスパーソンは、英語ができるから優秀なのではない。「アルターエゴ」を持っているから優秀なのだ。 -- 吉越浩一郎

けだし同感である。

もっとも、社会が個人がindivisualであるという前提で設計されているのも事実であり、それ故「人格統合術」もまた欠かせないはずであり、みなさんこの点をどうしているかがむしろ気になる。人格の多さであれば自信(ってどのegoの?)があるし、それが今の「私」のありように多いに貢献しているのも確かなのだが、「人格による人体の奪い合い」には「我」ながらあきれる日々である。私がどもっている瞬間は、口という「マイクの奪い合い」が起こっている瞬間であり、私の肉声を聞けばそれがどれだけ煩雑かはおわかりいただけるかと思う。

みなさんは、どうやってあまたの人格を統合として「個人」としてふるまっていらっしゃるのだろうか。

これぞ、私の全人格が異口同音に唱える「ヒトリゴト」なのである。

Dan the Society of Egos

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