まずは本書の存在を教えてくれた、梅田望夫に感謝したい。おかげでAmazonが在庫を切らす前に注文することが出来た。
弾言かつ断言する。
日本語で何かを成しているものにとって、本書をひも解くことは納税に匹敵する義務である、と。
本書「日本語が亡びるとき」は、今世紀においてこれまで書かれた中で、最重要の一冊(誤読が多かったので、少し表現を具体的にしてみた。確かに元の「今世紀」だけでは今後書かれる本も含まれてしまう)。
ノンフィクションの本を紹介する際、ふだん私はここに目次を入れているのは本blogの読者であればご存知かと思う。しかしこと本書に限っては、それは、入れない。隅から隅まで、頭から順番に最後まで読まれなければならないのが本書である。一本道に道案内はいらない。
本書を読了して、私はやっと理解できた。
梅田さんが、なぜ、それも日本ではなくシリコンバレーにおいて、「弾さんは英語が出来てうらやましい」と、ふと軽く、しかし底知れぬ諦念をもって嘆息したのかが。
そして、なぜ私が一年半もの間、原稿書き以外の有償の仕事を全く放棄し、Perl 5.8の開発に没頭していたのかが。
日本語に、危機が迫っている。
しかしそれは、ジジババが言う「近頃の若い者たちときたら、ろくに言葉も使えない」
みたいな。
日本語の「変質」のことではない。変質ならばよいのである。それはむしろ健全さの証とすら言えるのだから。今日のあなたが昨日のあなたでないように、今日の日本語は昨日の日本語ではない。
404 Blog Not Found:この手があったか! - 書評 - 日本という方法おもかげを 残したままで うつろい行く
うつろうのは、言葉が生きている証である。
ちがうのである。著者の危機感の正体は。そして私の焦燥感の正体は。
日本語そのものの存在が、危機に瀕しているのである。
私自身、おりにつけ主張をしてきた。
イベントレポート! まつもと ゆきひろ、小飼 弾、平田 大治が語る「生き残れるエンジニア」とは一方小飼氏はプログラミング言語ではなく、日本語に対して危機感を抱いているとコメント。「現在は日本語で高等教育を受けられ、またコンピュータサイエンスも日本語で勉強できるが、日本語が弱くなるとこれらが英語に置き換えられてしまう可能性がある。たとえば、20年後は英語を知らないとRubyを勉強できないということも起こりうる」と指摘。
しかし、文化的教養に欠ける私は、「文明的」にそれを主張することができるが、著者のようにそれを文化的に主張することが出来ない。そして、「日本語を護る」というのは、文明ではなく文化を護ることなのだ。
P. 266日本語が「亡びる」運命を避けるために何をすべきか。
何か少しでもできることはあるのか。
著者の主張とはだいぶ異なるが、私がこれまでに、あのえもしれぬ衝動に突き動かされてやってきたことは、「日本語の延命策」であった。今日のインターネットは、著者も主張するように英語で構築されている。しかし器としてのインターネットが英語で出来ていようとも、そこに載せるべき内容(content)は、英語である必要もなく実際そうではない。日本語もきちんと「乗せることが」できる。
今では当たり前のことではあるが、それは放置の結果ではない。それは数多くの人が「英語しか載せられない器などごめん被る」と、英語以外の言語も載せられるように、英語で尽力してきた結果なのである。そしてその尽力のごくわずかではあるが、しかし無視し得ない一部を私は担ったのだ。私はこれを誇りに思う。
しかし、漢字かな変換からUnicodeまで、これらの努力は延命策とはなりえても日本語の将来を来世紀にもわたって安堵するものとはなりえない。なぜそうなのか。本書でしっかり確認していただきたいが、こここでは私がどういってきたのかを改めて紹介させていただく。
404 Blog Not Found:この手があったか! - 書評 - 日本という方法そんなわけで、この「日本という方法」はこの島国でねんごろに育まれてきたが、今、この方法は未曾有の危機に直面している。それも一つでなく二つも。世界のフラット化と少子高齢化だ。
前者は言うまでもないだろう。コンテナ船に747にインターネット。島だった日本に架かる橋がこれほど多かった時代はなく、そして今後もこの橋は増え続ける。鉄砲を真似されたポルトガル商人は悔しがるしかなかっただろうが、ディズニーは著作権で守られている。これが、「おもかげ」の危機。
そして、少子高齢化。日本がこれまでうつろい行くことが出来たのは、うつろう人々がいたからだ。そしてそれはほぼすべての場合、それは現状に満足できぬ若い人々だった。知恵と経験では劣っても、数と熱意に勝る彼らが、日本をうつろわせてきた。今、このサイクルが停滞し、ものによっては逆転しつつある。これはまさに日本が「日本」を自覚して以来の危機ではないだろうか。人口は確かに今までも増減してきたが、これほど「頭でっかち」になったことはかつてなかったのだ。「うつろい」もまた危機に瀕している。
著者は言う。
P. 313日本語も、「絶対、大丈夫」ではない。
逆になぜ今まで大丈夫だったかを考えれば、なぜ今は「絶対、大丈夫」ではないかは明白である。日本語は、島国であるという「距離」と1億3000万(日本の人口よりわずかに多いのは、わずかではあるが日本人でない話者もいるから)、世界の50人に一人、それも最も経済的に豊かな方の一人が話し手であるという「質量」によって「自然」に護られてきた。なぜ日本語が「ねんごろに扱われなかった」かといえば、そうする必要がなかったからである--今までは。
しかし、前述のとおり、この二つの「堀」は、急速に埋まりつつある。すでに「距離」という外堀は埋まっている。そして今世紀いっぱいかけて、「質量」という内堀も埋まってしまうのだ。
この両方が埋まった時、日本語を護るものは、もはや何もない。
それでは、一体どうしたらいいか。
いや、それを問う前に、日本語は護るに値するものなのか。
仮に日本語が亡びても、日本人が亡びなければそれはそれでいいのではないか。たとえ自分たちの子孫が自分たちとは違う言葉を話していても、息災であればそれでよいのではないか。
という意見もありうる。しかし私は、日本語を護ることはその話者を護るに留まらないと信じている。日本語を護るのは世界のためなのだ。
なぜか。
それはentryを改めて語るとしよう。いや、語り続けていくことにしよう。
今、再確認しておきたいのは、以下の二点である。
一つ。今何もしなければ、来世紀には日本語は本当に滅びうる、ということ。
二つ。日本語を遺すということは、現代の日本人に対するにとどまらない、将来の世界に対する我々の責任であるということ。
この点において、私は著者と危機感をともにする。
ただし、「どうやったら来世紀も日本語を遺せるのか」という点に関しては、著者と意見を異とする。Jcodeを経てEncodeを出した経験が、それを裏打ちしている。
日本語を護る最良の方法は、何か。
日本語以外の言語、すなわち英語以外の言語も共に護る、という方法である。
なぜ私がJcodeでは満足できなかったかといえば、「日本語だけ護る」のでは日本語を護り切れなかったからだ。だから、英語が第一言語であった故 Nick Ing-Simmons から Encode を「引き取った」。プログラマーとしては数段劣る私がそれに踏み切ったのは、彼より強い危機感を持っていたからに他ならない。そして Encode を引き取るということは、日本語のみならず、英語以外の言語を全て引き取ることだった。
そして Perl 5.8 が Release された。私はここでやっと枕を高くして眠れるようになったのだ。
しかし、本書はそんな私を再び叩き起こしてくれた。読んで薦める以上のコミットメントを、私は本書に対してしていきたい。
まず、本書は英訳されねばならない。皮肉かもしれないが、それが著者の願いを成就させる最短距離である。そのために、私も出来ることをしたい。残念ながら私の英語力は本書を訳出するにはあまりに不十分であり、それ以前に日本語、そして文学の教養が足りなさ過ぎる。が、たとえば訳者を資金面等で援助することは可能だろう。
本気、です。
しかしそれはまだ少し先の話。
まずは、本書を一読して欲しい。危機感を共有して欲しい。
日本語であれ何語であれ、一人でそれを護ることなどかなわないのだから。
Dan the Nullingual
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