ちがうよ、梅田さん。

Twitter / Mochio Umeda: はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコ ...
はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。

彼らはバカなのではない。

無礼なのだ。

「日本語が亡びるとき」、飛ぶように売れている。

おかげで、昨日の売り上げは一日当たりとしては空前のものであった。残念ながら数を言うことは出来ないが、私の紹介記事に対するはてなブックマーク数よりも多いのは確かだ。

同書のメッセージ、そして著者と私が共有する危機感を、すべての人が理解するのははなはだ困難だろう。バブル崩壊前にバブル崩壊を語っても誰も耳を傾けないことにも似て。

404 Blog Not Found:今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき
この点において、私は著者と危機感をともにする。

それでも、想定以上の人が私の「書評ならざる」紹介記事から何かを感じ取り、自分の目でそれを確認する決定をしたことに、私は大変満足している。

しかし、私は著者と危機感を共有していても、価値観をも共有しているわけではない。

著者は言う。

第七章
日本語が「亡びる」運命を避けるために何をすべきか。
何か少しでもできることはあるのか。
凡庸きまわりないが、学校教育というものがある。
そして、その目的を達するにおいて、原理的に考えれば、三つの方針がある。あくまで、原理的に考えればのことではあるが。
 Iは、<国語>を英語にしてしまうこと。
 IIは、国民の全員がバイリンガルになることを目指すこと。
 IIIは、国民の一部がバイリンガルになることを目指すこと。

著者は、IおよびIIが不可能に近い困難であることを指摘した上で、次のように結論する。

 IIIを選ばなくては、いつか、日本語は「亡びる」。

まとめると、バイリンガルエリートが日本語を護る盾となり、残りの日本人は日本語を「きちんと」学ぶことで日本語を育み続ける、というのが著者の構想である。

しかし、私にはそれがIIを上回る困難に感じられてならないのだ。

なぜか。

日本には、エリートという伝統そのものがないからだ。

エリートとなりうる人々は、かつても存在したしこれからも存在しつづけるだろう。

しかし、国費であれ私費であれ、エリートとしての能力(capacity)を得た人が、エリートとなったのであろうか。

この国の歴史を振り返る限り、否、と答えるしかない。

エリートとは、強く賢い人々のことではない。

エリートとは、自らより愚かで弱い人々のために命を賭することを、自他ともに認めた人々のことである。

自らと同程度に賢い人々のために殉じた人は、少なくない。戦没者は全てこの中に入るだろう。

自らより愚かな人々のために尽くした人ですら、存在しなくはない。

しかし、それが自他ともに認められたともなると、日本が開国して以来、一人も思い浮かべることができないのだ。

この国において、エリートとしての能力とエリートとしての品格(quality)を持ったことなどかつてあったのだろうか。

反証なら、いくらでも思いつく。その中でも真っ先に思いつくのは、森林太朗である。乃木希典の将帥としての能力不足は今ではよく知られるところだが、その乃木よりも多くの将兵を損なったのが閣下である。閣下は自説に固執して将兵を損なったに留まらず、そのことを一生認めようとはしなかった。

エリートと能力も品格も欠いていたその人のペンネームが、森鷗外である。この人が文豪であることの条件を満たさぬという人は、およそ日本語の使い手には存在しないだろう。

文豪はいても、エリートはいない。

それこそが、この国の形ではないだろうか。

それでは、なぜこの国にはエリートというものが存在しなかった、いや出来なかったかを考えてみる。そして出てきた結論は、この国には文豪を敬う伝統はあっても、エリートを敬う伝統はないということにたどり着く。能力も品格もエリートとしての条件を満たしていた杉原千畝をこの国がどう遇してきたかというのは、そのごく一例に過ぎない。

「反知性主義」という言葉がある。私はこの言葉を充分理解しているとは言えないが、「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」などの書物を通して、そして自らがあの国で過ごしてきた日々を思い起こすことで、おぼろげにそれが一体なんなのかを想像することが出来る。その一方、かの国はエリートに事欠くことはないのだ。

日本は、まさにその反対に感じる。森林太朗を忘れ森鴎外を忘れないこの国には、反知性主義もないがエリートも存在しがたいのだ。

そして、なぜエリートを敬う伝統が生じなかったか。

エリートとなりうる人々に、人々が無礼をもって答えてきたからではないのか。

人々の無知蒙昧に、エリートは耐えねばならない。これはエリートとしての、義務である。

しかし、エリートたりうる人々が、エリートにならねばならぬ義務もまた存在しないのである。

エリートとなるのは義務ではなく、しかしいったんエリートとなれば義務ばかり追う。

そんな損な役割の彼らの唯一の報酬は、敬意である。

そして、この国は文豪には敬意を払っても、エリートには敬意を払うことなく今に至っている。

護るべき伝統を護るために、ありもしない伝統をゼロから作り上げる。

それに比べたら、国民皆バイリンガルの方がよほど簡単な事業に思えてならないのである。

Dan the Layman