間違いなく、kennのエッセイのベスト。

英語の世紀に生きる苦悩:江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance - CNET Japan
私には、英語コンプレックスがある。

私にとっては、英語も日本語も「外国語」というか、「マイノリティの言語」である。「英会話ヒトリゴト学習法」で触れたように、双方ともそれを話す人格はいるのだけど、圧倒的多数は、「オレ言語」というか、英語とも日本語とも異なった思考法で思考している。最も異なるのは「文の流れ」で、英語も日本語もString = 文字列 = 紐という形で「直列」に展開しているのだが、「オレ言語」では「全て」が「同時」に「目の前に現れる」。この感覚を他者に説明するのは難しい。が、「Stringではない」というところまでは伝わるかも知れない。

で、他の「共通語人格」が何をするのかというと、「いっぺんに見えたそれ」を「直列化」= Serialize しているのである。「一枚の絵を見せる」のが「オレ人格」で、それを「実況中継」するのが「共通語人格」いったところであろうか。

こんな感じなので、私の言葉づかいはどちらにおいてもたどたどしい。Native Speakersの平均を1とすると、自分のそれはどちらも0.6ぐらいだろうか。ただし、英語の方がわずかではあるが「楽」である。脳が疲れた時発するのが英語であることからもそれが伺える。ただしその差はわずかであり、重要なのは「どちらも平均に劣る」ということである。

ところが、である。

英語の世紀に生きる苦悩:江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance - CNET Japan
そのようなことを一番実感するのは、パーティに招待されたときだ。とくに若くて頭のいい子たちが集まるスノッブなパーティはことさら苦痛だ。このあたりのアメリカ人は英語の不自由な外国人に慣れているから、真剣に話せばじっくり聞こうとしてはくれるのだけれど、自分たちが話すときには暗喩的なレトリックを多用しながらマシンガンのように言葉を発し、どんどん話題を切り替えていくから、聞いてるこっちは今何について言及しているのかよくわからなくなる。

私のたどたどしい言語能力が、最も活き、話すことができるここちよさが、話しづらいもどかしさを上回るのが、まさにこういったパーティーの時なのだ。なぜなら、そこで最も注目されるのは、「どう言い回した」かではなく「何を話したか」だからだ。そこにおいては、頭のいい彼らですら、「首尾一貫した文法」はあとまわしにされる。Subject-verb "disagreement"なんてしょっちゅうで、「いいまつがい」だらけなのが「会話」である。そこではStringは「糸玉」となってもつれ合う。それが、私の「人格群」に「ホーム感」をもたらす。

しかし、それだけでは「何を話したか」が他と際立つことは説明できない。なぜ私は他の人と同じ言い回しをしないのか。そしてそれ故に、パーティーが終わった後でも「覚えていて」もらえるのか。

二つ以上の言語を、知っているからだ。

私は英語を日本語の視点から見ることも出来るし、日本語を英語の視点からも見ることができる。お互いの人格がそれぞれの「背中」を見るだけなのだから楽なものである。

そしてそれは「二重言語者」にとっては当然の行為でも、「単一言語者」にとってはそうではない。

これは、とてつもない優位(advantage)ではないのか。

自分の交友録を振り返ってみても、「この人とまた話してみたい」と思わせる人のほとんどは多重言語者であり。逆に、単一言語者は話相手としてはつまらないことが多いのだ。

「英語では駄目なのです。保証しますよ」と高らかに英語で宣言したベネディクト・アンダーソンと同様の底なしの無邪気さと鈍感さである。

この「英語を<母語>とする者たちの無邪気さと鈍感さ」というのが、「日本語が亡びるとき」の通底和音なのだが、私には、むしろそれこそが彼らの弱点であり、彼らにはそのことを見ることすらできないことに哀れみすら覚えるのだ。

英語を母語としない者は、英語は「必要に迫られて」学ぶ。英語を母語とするものがそれ以外の言葉を学ぶ際に、その動機は存在しない。一年間、毎週五時間クラスに通い続け、一応単位も取得したはずのドイツ語を、私がマスターできなかったのかの理由が、まさにそれだ。そして、たった一週間しかいなかったイタリアで最後にはカタコトではあるがイタリア語を話せるようになっていた理由も、それだ。

「必要に迫られる」。これほど効果覿面な学習法は、ないのだ。

そして英語の世紀において、英語を母語とする者たちは、外国語を学ぶ必要に迫られることなく一生を過ごす。こうして「かまけて」いるうちに、多重言語者である「よそもの」たちが自分たちの頭を超え、社会のおいしいポジションをどんどん抑えてしまう。

これが、英語の世紀をもたらした国で起こってることなのである。

英語の世紀というのは、むしろ単一言語者を弱者にしてしまう時代なのではないだろうか。

さらにやるせないのは、その単一言語者にも序列が出来てしまうことである。同じ単一言語者でも、英語の単一言語者は確かに非英語の単一言語者よりも優位にある。同じ単一言語でも、英語とスペイン語では後者は「下」になってしまうのだ。

しかし、その英語の単一言語者もまた、多重言語者においしいところをもっていかれてしまうのだ。

いま現在の安寧をもとめ、英語というハンデのある世界に背を向け、それなりに豊かな日本語の世界に逃げ込んだとしても、日本語が実際に凋落してしまう前に寿命を迎えて逃げ切れるのであれば、一世代の戦略としては正しい。しかしそれは、ますます今後も勢力を増すばかりの英語の世紀にあっては、子孫に負債を残すことにならないだろうか。

そう。子孫。

これこそが、今の日本でもっともないがしろにされている価値ではないのか。

404 Blog Not Found:惰訳 - Barack Obama's acceptance speech in full
America, we have come so far. We have seen so much. But there is so much more to do. So tonight, let us ask ourselves ? if our children should live to see the next century; if my daughters should be so lucky to live as long as Ann Nixon Cooper, what change will they see? What progress will we have made?
アメリカよ。わたしたちはこれほどの高みに来ました。これほどのものを目にしてきました。しかしやらねばならぬことはさらに多いのです。わたしたち自身に問いかけようではありまえせんか。もし子どもたちが次の世紀を迎えるのだとしたら、私の娘たちがアン・ニクソン・クーパーと同じぐらい運良く長生きしたとしたら、彼らが目にする変化がどれほどのものであるのか。わたしたちがたどりついた進歩がいかほどのものであるのか。

新大統領は今後嘘つきでないことを少なくとも四年、低からぬ可能性として八年かけてそれを証明していくことになるのだが、実は日本にも未来を確約し、そしてそれを反故にした元首がいる。

小泉純一郎である。

自民党や郵政省などいくら壊しても構わない。格差拡大でさえ、少なくとも彼に(自民党候補に投票することで間接的に)票を投じた者たちは甘受すべきあると私は思う。

しかし、彼が「米百俵」を笑殺したことは、一人の親として絶対に許すことが出来ない。

確かに日本の台所事情を考えれば、水村案II、「国民の全員がバイリンガルになることを目指すこと」は実に困難に思える。しかし私は知っている、水村案III、「国民の一部がバイリンガルになることを目指すこと」が、バイリンガルとモノリンガルの間に、超えられない壁を築いてしまうことに。

「国民皆バイリンガル」、実に困難だ。日英語ともなればなおのこと。デンマーク人やオランダ人の英語のうまさはあまり慰めにならない。彼らの母語は英語の姉妹なのだ。同じバイリンガルといっても、英語と日本語のバイリンガルにというのは、英語とゲルマン語族のバイリンガルとは比較にならないほど難しい。

しかし、フィンランドはどうか。フィンランド語は、ゲルマン語族どころかインド・ヨーロッパ語族ですらない。母国語の英語からの距離は相当なものだ。しかし彼らの実に多くが英語を話す。英語を学ぶのがずっと楽なはずのドイツ人よりも、彼らのバイリンガル率は高いように感じられる。

これは、充分なコスト -- 時間と金 -- をかければ、IIを選ぶことも可能であることの証なのではないだろうか。

英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい - 分裂勘違い君劇場
そして、梅田望夫氏や小飼弾氏のような、ウルトラスーパーエリートにとっては、
たいした負担ではないかも知れないが、
せいぜい上位20〜40%ぐらいのごく普通の日本人にとって、バイリンガルになるということは、大変な負担だ。

前述のとおり、私にとってもバイリンガルであるということは大変に重いコスト負担であり、そのコスト故に流暢さという、社会においてはかなりの価値を有するカードを手放して得た代物である。そして手放したカードがそれだけではないことを、「日本語が亡びるとき」はいやがおうでも教えてくれる。私はカタコトの現代日本語を話すが、日本語の伝統という教養を欠いている。何万冊本を読んでも、この無教養は未だに治っていない。kennが英語に感じているような「コンプレックス」を、私は「日本語の伝統」に感じているのだろう。

しかし、その代わりに手にしたものもまた大きいのだ。何よりも大きいのは、今私がこの日本で生きていて、しかも妻や子までいるという事実そのものだ。なぜそれが可能だったかといえば、私がそれを可能にするだけの「生産能力」を有しているからで、そしてその「生産能力」は、私がカタコトではあっても、バイリンガルであることを必要条件とする。

日本で、家族とともに生きていくのに、バイリンガルであることが必須だった、という事実。

モノリンガルであったら、ひいき目に見てもワーキングプア、いやそれにすらなれなかったであろうという自己認識。

私は、すでに言語力格差というものが存在することを感じている。目に見えないけれど、それは存在し、そして今までそれを言語化できなかったけれど、水村美苗がそれをやってくれたことに感謝している。

とりとめがなくなってしまったが、伝えるべきことは、一つ。

英語の世紀においてこそ、英語以外の言語を持っていることが決定的な強みになるということ。

たとえ、英語、母語それぞれの能力がそうでない場合と比べて劣っていたとしても。

Dan the Nullingual