正直、「日本語が亡びるとき」の読了感はこれとそれほどかけ離れていない。

2008-11-11 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
ようするにこの本は柄谷=岩井的な言語=貨幣観と『批評空間』的な文学史観にもとづいた、柄谷行人『近代文学の終り』のたんなる文学少女バージョンなのである。

正直、彼女が愛してやまない漱石は、私は好んで読んだためしがない。同書を通じて「ああ、こういう読み方もあるのか」と感心はしたが、だからといって漱石を「読まなきゃ」という義務感は感じても「もっと読みたい」という欲求は全くおきなかった。鴎外に至っては、いくらいい文章を書いたところでその罪の大きさを拭えるものではないとすら感じている。

と同時に、たとえば吾輩ハ猫デアルを複製するのに充分なソフトウェア・インフラストラクチャーが2008年の現在においても確立されていないことを、一工学者として残念に思う。具体的には「それぞれ」の後ろの「ぞれ」を「/″\」と書かざるを得ないことを、自分に責任はないけれど、申し訳なく思う。

だからこそ、私は

404 Blog Not Found:今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき
日本語で何かを成しているものにとって、本書をひも解くことは納税に匹敵する義務である、と。

と納税にたとえた。いやでも、いや、いやだからこそ読まねばならない本というのは確かにあるのだ。

2008-11-11 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
というわけで、水村美苗の本は、梅田望夫氏が考えているのとはまったく違った意味でも、多くの人に読まれるべきである。そして議論が起こされるべきである。そして願わくば、このようなナショナリズムと悲観と無知と傲慢さ*6によって彩られた本は否定され、「近代文学」の達成をふまえつつ、現在の日本語で優れた小説を書いている作家たちの「孤独」こそが、広く知られるべきなのだ。

いや、重要なのは、たとえ「ナショナリズムと悲観と無知と傲慢さ」の果てであっても、やっと、そうやっと「文学者」という「言語利用者」の頂点にいる者が、言語利用者の底辺にいるものたちが面してきた問題と危機感を得たということそのものにあるのだ。

この「国」が「日本語」に対して来た非道は、本書にも詳しく書かれている。この国において、日本語を虐げて来たのは他ならぬ国家であり、その走狗たる役人であり、その役人たちに一目おかれていた文学者たちであった。彼らが日本語につけてきた傷は未だ痛々しく、いまこうして我々が使っている日本語に残っている。中途半端で意味不明な漢字簡素化に新仮名づかい....私が今使っている日本語も、「傷ついた日本語」である。なぜなら私は「傷つく前」の日本語を何とか読めても、書くほどの教養がないからだ。私の名前が「彈」ではなく「弾」なのも、実はその余波である。

本書に書かれていないのは、その間だれが「国の魔の手から」「日本語を」護っていたかである。

それは、誰か。

工学者たち(engineers)、である。

古くは活字職人であり、コンピューターの登場後はJIS X 0208規格を定めた人々であり、それを漢字ROMに焼いた人々であり、それにかな漢字変換でアクセスできるようにした人々であり、それをワープロに搭載した人々であり、それと同様以上のことをパソコンで出来るようにした人々であり、そのパソコン上で使うためのフォントを作成した人々であり、そしてインターネット時代においては、JISを損ねることなくUnicodeに反映させた人々であり、文字を単に表示するに留まらず、それを検索できるようにしたり、異なる文字コードを相互変換できるようソフトウェアを整えた人々である。

彼らの日本語に対する無教養は、隠しようがない。存在しないはず文字をコード表に乗せてしまうこともあれば、「なんでこんなによく使う字なのにコード表にないのだ」という文字もしばしばだった。

それでも、彼らは「それがコンピューターに不向き」だからという理由で、カタカナを押し付けたりはしなかったのだ。その時々のコンピューターの能力で、可能な限り「書きたいことを書きたいように」書けるよう、ハードウェアもソフトウェアも磨き続けて来たのだ。

彼らの尽力は、それに留まらない。アルファベットと数字とわずかな記号しか扱えなかったシステムを、単に「日本語も扱える」ようにして日本人に届けたのみならず、それが世界に届くようにしたのだ。 Mac OS X に「日本語版」はない。世界中どのApple Storeで、あるいはそれ以外で購入した Mac であろうが、日本語の入出力が可能なのだ。Windowsもしかり(Macほど簡単ではないが)、UbuntuをはじめとするデスクトップLinuxもしかり。

その間、「文学者」たちは一体どこにいたのか。「日本語の達人」たちは何をしていたのか。

著者に、真っ先に問いたい質問である。

と同時に、嘆息と同時に反省せざるを得ないのである。

なんで、きちんと「文学者」たちや「役人」を、このプロセスに巻き込まなかったかを。

JIS X 0208 や Unicode は、おかげでずいぶんと不格好なものになってしまった。工学者主導で来たからだ。彼らは「どうやって文字をコンピューターで扱えるように出来るか」は知っていても、「どの文字をコンピューターで扱えるようにすべきか」を知っていたとはとても言えない。

ASCIIは美しい。あれほど美しい規格を、それを作ったものたちは「文系」抜きで作ってしまった。それはアルファベットが以下にコンピューターと相性がよかったかの証でもある。

しかし、本来コンピューターでは扱いにくかった日本語を扱えるようにする過程において、工学者たちはそれぞれ「孤軍奮闘」してしまった。工学者とそれ以外の相互連絡(communication)どころか、工学者どおしの連絡すら不十分だった結果、文字コードすら複数存在する羽目になってしまったのはご存知のとおり。おかげで後で私も苦労する羽目になった(苦笑)。

もしかして、「文学者」と「工学者」との隔たりは、英語と日本語の間よりも大きかったのかも知れない。

なぜ私が本書を推すか。それは本書が「文学者の詫び状」でもあり、そして本書の上梓が文学者と工学者との間にかかった橋でもあるからだ。

そして言語は、両者を乗せた船でもある。

この船は、嗜好も指向も、そして思考も異なる両者が共存できるほど、大きな船でなくては、ならないのだ。

Dan the Engineer