日本語は、それ「だけ」のものだろうか。

「国語」としての日本語は、滅びない。そして英語は道具として使われる。 - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)
日本語という「国語」は、国家統合の要であり、象徴なんです。

「ほげ語」=国語というのは、ほげ=日本では成り立つけど、他はそうであるとは言えない。

ブリテン島が沈没しても、英語は亡くならない。イベリア半島が沈没しても、スペイン語もポルトガル語もなくならない。フランスが消滅してもフランス語はケベックやアフリカで細々とではあるが生き残るだろう。ドイツ語ですら、ドイツがなくなってもオーストリーとスイスが残っている。中華人民共和国と中華民国(台湾のことね。念のため補足)がなくなっても、華僑たちが中国語を語り継ぐだろう。ディアスポラしたユダヤ人たちは、ヘブライ語を復活させてしまった。

では、日本語の場合はどうだろうか。

日本が沈没しても、生き残ることができるだろうか。

現状では不可能に近いほど困難なのではないだろうか。

非国民と言われるのを承知で言うと、私にとってより大事な日本は、「国」ではなく「語」の方なのだ。

未成年の頃、日本国は私にとって「やすらげる家」ではなかった。日本国の提供する義務教育は私をさんざん虐めてきたし、家庭内は内戦状態だった。日本語とは、教師が「廊下に立ってろ」というための言葉であり、父親が「ばかやろう」というための言葉であった。

そんな私は、まず英語に逃げ、そして英語圏に逃げた。私にとって英語とは「亡命先」だったのである。無理解と、暴力からの。

そんな私がなぜ日本に戻って来たかはここでは話さない。が、その「亡命先」の言葉を持ったからこそ今私は日本でやっていけているというのはなんという皮肉だろうか。

しかし幸いなことに、日本に幻滅していた私も、日本語には幻滅しきることはなかった。

「文学」(literature)が、あったからだ。

私にとって「文学」とは、漱石や鴎外ではなく、星であり小松であり筒井だった。一言で言うと「SF」であるが、Science Fiction という「英文学」なしには生じなかったはずの文学でありながら、私が耽読する頃にはそれはもうSci-Fiではなく「SF」となぜかアルファベット二文字で表記される「日本文学」になっていた。

この体験は、私に二つのことを教えてくれた。

一つ。「文学」は孤独ではないこと。

日本文学も英文学も、文学どおしに相互連絡がたしかにあるという意味である。

二つ。「訳さざる文」というのは、確かに存在するのだということ。

相互連絡はあっても、ある言語の全てを別の言語に「移行」することは不可能だという意味である。

「訳されざる文」が存在することを知るのに、ブンガクは必ずしも必要ない。ここでは

Life is a bitch so fuck it.

そんなシャレはやめなシャレ。

という駄文を紹介しておくにとどめる。この程度の文ですらもう「訳せない」のだ。訳したとたん、別物になってしまうのだ。

私は「文学」を極めて拡大して解釈している。その定義はこうだ。

「それを十分味わうのに、翻訳ではなくその言語の習得を必要とするもの全て」

「翻訳(translate)」ではなく「移植」(port)という言葉を使えば、さらに簡潔に書ける。

「移植不能な読み物」(non-portable thing to read)

私の言う「文学」は、むしろ英語のliteratureに近いという言い方もできるかも知れない。「文学」より"literature"の方が、もう少し幅が広い概念だ。文学を堪能できても「文盲」とは言わないが、 literature にアクセス出来ないことは、確かに illiterate という。

実はこの点において、「自然言語」と「コンピューター言語」は決定的に異なる。コンピューター言語の場合、理論上移植不能なものは存在しない。チューリング互換な言語Aは、必ずチューリング互換な言語Bに移植可能だ。

にも関わらず、コンピューター言語は一つになるどころか、いくつも生み出されて、今後もさらに生み出されるだろう。なぜか。それが「コンピューターが実行すべき命令」ではなく、「人間が読むべきもの」となった途端、「文学的」になってしまうからだ。

これを最初に「発見」、厳密には「言語化」したのは、Larry Wallだと思われる。

もし言語が単なる表現手段(expression)に過ぎないのであれば、こうはならない。このことは逆に言語の死亡判定にも使える。もしその言語が表現手段に過ぎなくなったとしたら、その言語は死んだのだ。その意味で、まさにラテン語は死んでいる。少なくとも死んだと見なされている。だから「命名用補助言語」として学者たちが使うようになったのだ。

生きた言語は、単なる表現手段ではない。

それは、「考え方の乗り物」(vehicles of thought)なのだ。考え方そのものの乗り物でもあるのだ。その言葉考える人がいなくなった時点で、その言葉は死んだのだ。

エスペラント語考えている人は、いるのだろうか。もしそうでないとしたら、エスペラントは生まれてすらいないことになる。エスペラントは簡単だという。しかし、私は未だにエスペラント語で夢を見るという人にお目にかかったことがないのだ。

言葉が表現手段を超えて、考え方の乗り物となるには、クリティカル・マスが必要なのではないか。それは100人かもしれないし100万人かも知れない。それでも、考えるべきことが多ければ多いほど、そして考え方が多様になればなるほど閾値は大きくなるというのは想像に難しくない。

だとしたら。

日本語を日本国に閉じ込めておくのは、日本国民ならざる日本語人に対する不当な差別なのではないか。そして、日本語の可能性に対する不当な過小評価ではないのだろうか。

ジェロは「帰化」しないと演歌を歌ってはならぬとでも言うのだろうか。

「国語」としての日本語は、滅びない。そして英語は道具として使われる。 - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)
日本語を話すから、「日本人」という共同幻想のメンバーに加わることが出来る。

これは、正しい。

だからこそ、私は日本国と日本語を「デカップル」しておきたいのだ。

誰であっても加われる共同幻想であって欲しいのだ。

Dan the Nullingual