ああ、読んじまった。読んじまったよぉ。




ハイペリオン/ハイペリオンの没落
[原著:Hyperion / The Fall of Hyperion]




エンディミオン/エンディミオンの覚醒
[原著:Endymion / The Rise of Endymion]
Dan Simmons / 酒井昭伸訳
それほど、血中SF濃度が下がっていたので
「もっと早く読んでおけば」が3割、「まだ読むのが早過ぎた」が7割。
本四部作「ハイペリオン/ハイペリオンの没落/エンディミオン/エンディミオンの覚醒」は、90年代最高のSFの呼び名も高いが、むしろ「20世紀までの文学の総括」と見なすべき作品。神話からサイバーパンクまで、俳句から大河ドラマまで、そこにない文学形式がないと言っていいぐらい。本作はまぎれもないSFであり、SFのSFであり、同時に文学であり、文学の文学である。
実は私は、その第一作目"Hyperion"をリアルタイムで読んでいた。しかしその時の感想は、「すごい」というより「すごいひどい」であった。読ませるものではあったけど、伏線は放り出されっぱなし。前戯だけで部屋の外に放り出された感じ。もちろん続編があるのはわかったてたけど、私はこういう放り出され方がだいっきらい。作品が続いてくのはいいけど、オチはきっちりつけてもらわないと。
さらに不幸だったのが、当時の私が「文学」アレルギー、それもKeats過敏症だったのだ。よりによって私がまっとうに読んだ--というか当時つきあっていた彼女に「つきあい読み」させられたのがLamiaなのだからたまらない。これをこきおろしたおかげでふられてしまったのだ。
そのこきおろした、というか噛み付いた部分が、ここ。
Lamia - WikisourcePhilosophy will clip an Angel’s wings,
Conquer all mysteries by rule and line,
Empty the haunted air, and gnomed mine?-
Unweave a rainbow, as it erewhile made
The tender-person’d Lamia melt into a shade.
これを書くにあたってWikipediaでしらべたら、かのドーキンスもここに噛み付いていたことを知って大笑いしてしまった。
それで、よかったと今は言える。
20代のガキだった自分にはまだ読みこなせなかっただろうから。
Keatsは四部作前編を通して最重要キャラであり、そしてこの部分は本作でも重要な意味を持っている。というよりはっきり言ってしまうと、KeatsのEndymion/Hyperion/The Fall of Hyperionにとっての本作は、オデッセイにとってのユリシーズであり、そしてたとえどれほど長大にして芳醇でも未完成だったHyperionと違って、著者は逆にHyperionからはじめて、そして見事にFallからRiseさせて本作を締めくくった点において、「原作」を凌いでいるといえるのではないか。
しかし、本作はそんなKeatsを知らなくても楽しめる作品になっている。本書にテラ山盛りにされた古今東西の物語や詩を知らなくても大丈夫。そもそも作者ほど古今東西の文学に通じた人はone in a billionぐらいだと「フェルミ推定」できるので、本書の地肉となった元作品を全て追った人は存在しないだろう。
だからこそ、まだ読書体験が浅いうちは、読んでしまうのがもったいないのだ。
本書にとりかかるには、やはりある程度の読書体験があった方がいい。SFでなくてもかまわない。ミステリーでも、英文学でも。ただ、どの分野でも、同好の友と一晩語り明かしてネタ切れを起こさないぐらいには読みまくっておいた方がいい。100冊だとまだちょっと少ないかな。1000冊はさすがに行かないような気がする。
本書には、実に多くの「これまでの名作」が織り込んである。しかしきちんと著者が消化した上で再構成しているので、本書から「ポロロッカ」((c)絶望先生)するのはかなり困難だ。それをきちんとやるには「ハイペリオン読本」のような副読本が必要ではないのか。
だから、先に本書の糧となった作品群を読んでおいて欲しいのだ。本書を読むのは、それらを思い起こす行為でもある。「あ、インテグラル・ツリー」「なんというブラッド・ミュージック」「およ、もしかしてこれ
そんなわけで、実のところ39歳のおっさんにも、この作品はちょっと早過ぎた気もする。アイネイアーが現れて、「今はまだ教えられないの」と言ってくれればよかったのに。いや、エンディミオンがアイネイアーとはじめて愛を交わしたのは三十代。そして愛を実らせたのは今の私ぐらい。ちょうどよかったと自分を納得させることにしよう。
そう。アイネイアー。彼女こそが本作におけるエンダーでありヴァレンタイン・マイケル・スミスなのだ。あのじれったく謎だらけの「ハイペリオン」が旧約聖書なら、「エンディミオン」は新約聖書であり、そして彼女はキリストなのだ。
だから、読者は四部作を最後まで読まないと「救われない」。少なくとも私はそうだった。「ハイペリオン」の時点で賞を与えたSFコミュニティは偉いけど、なんであんな不満ばかりのこる第一作の時点でそうなったのかは私にはちょっとした謎である。
こうやって書くと、いかに本書が洗練された作品かという感じがするが、本書の魅力は、むしろもっと洗練してもいいところをあえて「寸止め」しているところだ。著者が「文学の文学」を成すのにSFを選んだのには理由がある。それのみが、全ての文学を入れるだけ大きな虚空界を用意できるのだから。そこには洗練だけではなく粗暴もつぎ込まなければならない。
その粗暴の、なんと傲岸なことか。超光速も宇宙人もそこにはある。もはや狭義のSFからはみ出てしまう、スペースオペラがそこにある。それでいて、「宇宙が出てこないSF」であるサイバーパンクもそこにある。ジョン・キーツを運び屋ジョニィに仕立ててしまったのは実に豪快で痛快だ。
そんな数多の作品を換骨奪胎した本四部作の最終作、「エンディミオンの覚醒」のメインのモチーフは、やはりハインラインではないか。それも、「異星の客」と「夏への扉」の二重奏。しかも男女が入れ替わっているのがニクイニクイ。
そして、もうびっくり仰天なのが、翻訳の質。ギデオン航法で殺してもらってから聖十字架で復活してくれってぐらいSF欠乏症が悪化していた私は、原著主義、しかもフィクションに対してはそれが一段と強いにも関わらず、酒井昭伸訳を先に手にしたのだが、まあ、これがアイネイアーの血のごとくびんびんに利いた。原著の世界観への配慮は、著者本人に勝るとも劣らず。著者が父なら訳者は夫とよびたくなるほど。ところによっては原著をしのいでいるのではないか。torchshipと
その一方で、英語版の方が読みやすいところはどうしてもある。「レイミア」と"Lamia"では、後者の方がずっと「ピンとくる」。どちらが先でもいいとは思うけど、せっかく両方手に入るのだから、双方手に入れておいてもいいだろう。ちなみに英語版ではすでにOmnibus版が出ているので、Hyperion OminibusとEndymion Omnibusの二冊で済む。
しかし、邦訳のすごいのは、訳だけではないのだ。見よ!この生頼範義を!作品をきちんと読み込んだ上で、あの豪快な筆。読む前に一目見て惹かれ、読んだ後に改めて観て惚れる。こういう絵師は日本の方がずっと多い。これを観た後だと原著の表紙が安っぽく見えて仕方がない。つーか早川書房様、日本の表紙絵は逆輸出されないのでしょうか。最近の英米フィクションの挿絵はしょぼいのが多過ぎます。
優れた作品がすべてそうであるように、本書にもあら探しポイントはいくらでもある。これだけネタにされコケにされたカソリック教会は、本書をちゃんと禁書にしたのだろうか。地球から人類が聖遷した作品世界においてもダライ・ラマが<中国>にいるのはチベット人としては堪え難いかもしれない。しかし、パセムや天山の情景の描写は、実世界では看過しがたいこれらのアラを補って余りある。
かのごとく、本作は「読まずに死ねるか!」どころか「読まずに死んだら大天使級にのせて聖十字架で強制復活させてやる」というものなのだが、前述の「早く読みすぎるべからず」に加えてもう一つ注意点がある。
それは、「速く読みすぎるべからず」ということ。速読みにかけてはネメスやシュライクに遅れをとらない私でさえ、全四部作を読み切るには1日では足りなかった。転送ゲートやホーキング航法では、本作という虚空界を傷つけてしまう。ただし困ったことに、本作の超光速航法のごとく、本作は一度読み始めると「エンディミオンの覚醒」を読み切るまでは止められない。無理に止めるとギデオン航法に匹敵する苦痛を味わう羽目になる。読むのであれば今年の正月休みなど、時間があるときにしていただきたい。
SFって、本当に面白いですね。
Dan the SciFilia
あらら、本当だ。コピペ間違いの模様。ありがとうございました。
Dan the Man 2 Err