あまりにムカついたので、感謝することにした。

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新潮 2009.1

例えば、これ。

水村: 英語圏でインターネットのいい部分がたくさん出ているのは、梅田さんが書いておられるように、西洋には、パブリックという概念がきっちりあったのも影響していますよね。
梅田: そこが究極の差ですよね。

こういったパブリックの欠如を嘆く人たちに共通していることが二つある。

一つは、そういう人々が、その高い教養と大きな声に見合ったパブリックへ供与をしている姿を見かけることはまずない、ということ。

blog.bulkneets.net : [あとで消す] 梅田望夫さんの感動的なお言葉
ところで、お前はてなのコードどんだけ書いたの?

私はこのコメントに対し、パブリックにはこう答えたものの、プライベートにはこちらの心情に近い。あ、ここにパブリッシュしちゃったからもうバプリックだけどね。

しかし、こうした「手も動かさずに大きな口をたたくな」的反応が、ダメな議論であることも私は知っている。彼らの行動はとにかく、発言そのものは間違っていないのだから。むしろ折角の援護射撃を、「あいつらはいいよな、安全なところから撃つだけで」とひがむようなものだ。気持ちはわかるけど、援護射撃はありがたく利用させてもらう方がいい。

ここまでは、口が達者な人も手が器用な人も両方とも理解している。およそ口が達者な人であれば「オマエモナー」と言われるのは織り込み済みだし、手が器用な人は、言い返している暇があったらもっと手を動かしてしまうものだし、立っているものは親でも使うものでもある。

しかし、もう一つの理由が駱駝の背を折る。

仕事納めはラジオ (内田樹の研究室)
私的所有権を「所有の原基的形態」とすることによって(それが資本主義というものだ)、私たちの社会はすべてのものが「個人の所有物」で埋め尽くされた。

こういうえらい先生方はわかっていらっしゃるのであろうか。

こういう台詞が、社会的共通資本を実際に担っている人たちの心をどれだけ萎えさせるかを。

上の発言のURLは、こうだ。

http://blog.tatsuru.com/2008/12/30_1004.php

そう。この発言もまた、ある社会的共通資本の上に乗っているのだ。

実際に、パブリックへ供与し、社会的共通資本を充実させようという人々は決して少なくない。インターネットはその華麗な、しかしあまりに多くの実例の一つに過ぎない。

しかし、パブリックの欠如を嘆く人たちが、そうした人々をねぎらうことはないのだ。

Mint's log: そういう風に見えますか
「ええっ! アパートメントの掃除夫の人だと思っていました。ごめんなさい。私の名前はA子。あなたは?」

こんな感じである。

「パブリック」というと、「ノーブレスオブリージュ」という言葉が脊髄反射的に出てくる。しかし実際にパブリックを維持管理しているのは、ハンブル(humble)な人々だ。そういう人は確かに英語圏で目立つけど、世界のありとあらゆる街角にいるのだ。

掃除夫が、世界のあらゆる街角にいるように。

梅田さん、なぜあなたは水村美苗インタビューで、パブリックの担い手としては転向者かつ新参者で、まだ成果が上がっているとは言えないビル・ゲイツの名前は上げても、昔から黙々と、しかし着実に実績を上げている人の名を挙げないのでしょう。自社にだっているはずなのに。

下司の勘ぐりではあるが、ワーキングホリデーで京都に行ったつもりが、単なる観光旅行になってしまう理由がそこにあるのではないか。

パブリックの欠如を嘆くみなさん。

Stop bitchin' and give your hands.

嘆く前に、手を汚しましょう。

手を出せないなら、せめて感謝しましょう。

掃除中の人の前で、「掃除がなっていない」と言えるのは、掃除夫だけです。

そして、ふいたばかりの床を土足でかけていく彼らに代わって、不肖私が感謝します。あまりノーブルでなくてごめんなさい。

今この瞬間も、誰のものでもない世界の片隅を、誰にもねぎらわれることなく手入れしてくださった全てのみなさん。

今年もありがとうございました。

来年もよろしくお願いします。

Dan the Humble Blogger