長いこと書評しそびれていたのだけど、

実に苦く、そして「いい」タイミングでもあるので。

数多い「反」宗教本の中で、最強の一冊である。

本書「人類は「宗教」に勝てるか」は、神学者による反宗教本、いや非宗教本。

それも、ただの神学者ではない。

著者略歴

町田 宗鳳

1950年京都府に生まれる。14歳で出家し、以来20年間、京都の臨済宗大徳寺で修行。1984年に寺を離れ渡米。ハーバード大学神学部で神学修士号およびペンシルヴァニア大学東洋学部で博士号を得る。プリンストン大学東洋学部助教授、国立シンガポール大学日本研究学科准教授、東京外国語大学教授を経て、現在は広島大学大学院総合科学研究科教授、オスロ国際平和研究所客員研究員(ノルウェー)、国際教養大学客員教授、日本宗教学会評議員。専攻は比較宗教学、比較文明論、生命倫理学

著者は、仏教もキリスト教も「内側」から知っているのである。

その人にして、

P. 4
結論をいうなら、私は他ならぬ「宗教」こそが、人類最大の敵だと考えている。宗教は人間を救うものなのに、なんという暴論を吐くのか、という反論がっきっとあると思うが、そのような反論をしようという人の宗教への思い込みこそが、おおいに問題なのである。

と言わしめたのは一体なんなのか。

目次 - Amazonより
第1章 エルサレムは「神の死に場所」か
第2章 世界最強の宗教は「アメリカ教」である
第3章 多神教的コスモロジーの復活
第4章 無神教的コスモロジーの時代へ
第5章 “愛”を妨げているの誰なのか
第6章 ヒロシマはキリストである

この国は、一神教徒が支配していないにも関わらず、「列強」の一角を占めているという実に希有な国である。「神」を持ち出さなくとも政治を進められる(まああまり進んでいないというのも事実だがここではさておき)、G8の唯一のメンバーでもある。

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聖☆おにいさん
中村光

それだけに、むしろ一神教の怖さというのを、この国の人々は他人事としてしか知らない。「聖☆おにいさん」のような作品がなりたつのもこの国ならではであろう。Monty Pythonから「神は妄想である」まで、それは一神教国にだって反宗教な作品は数あれど、これらの作品の舌鋒の鋭さは、一神教支配の裏返し。ここまでゆるく聖者を扱うことは不可能であろう。

本書の半分は、その一神教の正体を紹介、いや暴露するのに費やされている。

P. 46
予期した通り、そのセミナーを登録した学生は全員がクリスチャンであった。遠藤周作の「沈黙」の英語版などをテキストとしながら、何週間かは楽しくクラスが進行した。ところが、ある日、授業の最中にしくしくと泣き出す女子学生がいた。私なりクラスメートなりが彼女を傷つけよるようなことを言ったのかと考えてみたが、どうもその様子はない。
そのままにしておくわけにもいかないので、思いきって、理由を尋ねてみた。涙を拭きながら、カリフォルニア出身の日系二世だった彼女は、次のように語った。「隠れキリシタンもイエスの教えに命を捧げましたが、私もクリスチャンとして洗礼を受けました。私の父も兄も洗礼を受けてくれました。ところが、母だけが頑として洗礼を受けようとしません。それどころか、ご先祖が大切だといって、毎日、仏壇に手を合わせています。私は母が好きですが、このままでは彼女は地獄に落ちてしまいます。」

この感覚は、実体験してみないとなかなか解りづらい。別に改宗しなくとも教会で結婚式が挙げられるこの国で、「入信しなければ地獄行き」と信じている人がいて、それどころかそう信じている人の方がはるかに多いのだということはなかなかわからない。

では、一神教の根源的な問題とは一体なんなのだろうか。

どうあがいても、悪が「対生成」されてしまうことではないのだろうか。

自分たち = we を「善」とすると、自動的にあいつら = they が「悪」となってしまうのである。

そして、自分たちが善を証明しつづけるために、常に悪を必要とする。なければ作ってしまうことすら厭わない。

はっきり言って、きりがない。

しかしかつては、一神教というのは中東の一新興宗教に過ぎなかった。なぜこれが世界中に浸透、いや蔓延したのか、未だに私は納得行く答えを得ていない。「ローマ人の物語」でもっとも幻滅したのは、その答えが書いていなかったことだ。

ただし、ヒントなら書いてある。

ローマがユダヤを「公平に」あつかったことだ。

支配も弾圧もしたけど、それは他の植民地においても変わらない。ローマ人にとってユダヤ人というのは、数ある叛徒のうちの一つに過ぎず、反乱を弾圧したけれども、民族浄化のたぐいは行わなかった。

カルタゴと、違って。

もしローマがカルタゴに対して行ったことを、ユダヤの地で行っていたら一体どうなっていたのだろうか。歴史のifとしてそれを考察するのはあまりに冒涜的なことなのだろうか。しかし私はディズニーの"Prince of Egypt"を見ている間、考え続けずにはいられなかった。もしモーゼを「取り逃がして」いなければ世界はどうなったのだろうか、と。

しかし、過去は過去である。それから2000年。一神教は少なくとも世界の半分を支配している。

そのままで、我々に次の2000年はあるのだろうか。

極めて難しいというのが、著者の結論であり私の結論でもある。

一神教は、滅ぼされるべきである。いや、「滅ぼされる」のはあまりに一神教的な考えだ。弱毒化の後、風化していくべきである。

しかしそのためには、一神教が何なのか。それがなぜまずいのかをきちんと知っておくべきである。「なんとなくやばそう」では、自分が一神教から距離を取るのには充分でも、友人が「改宗」するのを防ぐのには不十分である。

しかしそれ以上に大事なのは、唯一神を持たずとも、うまく生きていくことが出来るのだという実例を示し続けることなのだと私は「信じて」いる。この国の一番の存在意義は、そこにあるのではないだろうか。

P. 254
次世代の宗教は、実感のともなわない救いや、心理的な負担になるような罪を説くのではなく、刻々と終焉に近づきつつある人類に「今」という時をいかに生き、そしていかに死をむかえるか、なんのてらいもなく、ストレートに語る宗教であってほしい。

私としてはそれを「宗教」と呼ぶのははばかられるけど、我々が必要としているのはそういう「教え」だということには同意する。

そのためにも、人類はみずからの妄想集合体となっている「宗教」に、勇気をもって勝利をおさめなければならないのだ。

局所的な勝利がありえることを、この国は証明している。

それを人類的な勝利に持っていくためには何が必要なのだろうか...

Dan the Atheist