違うよ。全然違うよ。

権威の否定がいきづらさにつながる - たろの日記ページ,gooブログ版
まぁ別に宗教を信じましょうとか,学校の先生の言うことを聞きましょうというのがいいたいことじゃありません。ただ,何かを否定することが,結局は自分のいきづらさにつながってるのではないかな?と思うことがあるということです。

否定すべき権威が見えなくなっちゃったから、生きづらいんだよ。

否定するにしろ肯定するにしろ、権威に対して何か反応するというのは、権威という「用意された仕事」を「片付ける」ことだ。そしてそれを「仕事」と見なせば、否定の方が肯定よりもずっと「やるべきこと」が多い。少なくともこれだけある。

  1. 問題点の指摘。なぜ従えないかをきちんと説明できなくては、ただの愚痴に終わってしまう。
  2. 代案の作成。「ではどうするべきか」をきちんと提示できなくては、ただの批判に終わってしまう。
  3. 代案の証明。「それでうまう行くのか」をきちんと実証できなくては、「やはり権威が正しかった」ということになる。

これに対し、権威の肯定というのは、肯定した時点でやることがなくなってしまう。

どちらが得るものが豊かか、明らかであろう。

権威を最初から肯定するというのは、楽過ぎてつまらないのだ。

同じ肯定するにしても、はじめから肯定するより、否定を試みてそれに失敗した結果肯定する方が、遥かに納得感も強くなる。権威の立場から見ても、そうしてもらった方がありがたい。その方が正当性が高まるのだから。

そして権威の否定というのは、自らが権威となることで完成する。

Albert Einstein - Wikiquote
To punish me for my contempt of authority, Fate has made me an authority myself.
権威の侮蔑を懲らしめるべく、運命は私自身を権威にした。[拙訳]

「大人になる」というのは、これまで--そして今でも--「自らが自らの権威となる」ことを意味していた。権威の否定というのは、そのために欠くことの出来ない成長過程でもあったのではないか。親や教師を否定して行く過程を経て、人は親となり教師となっていくというわけだ。

そういえば,今は権威,特に精神的な権威というものが日本にはありません。宗教もそうですが,学校の先生の言うことにも親子共々従わない状況です。病気のことも専門家である医者の言うことも疑います。確かに裏を暴けば学校の先生もそんなにえらくはなく一人の人間です。医者も坊主もそうです。でも人は迷ったときに問答無用で「こうしなさい」という人がいたほうがいいのかもしれません。

権威というのは、あったりなかったりするものではない。

引き受けるか、否かなのである。

権威の否定という、挑戦を。

雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について』
承認されたいんですよ。ぼくは。承認されなきゃ、無価値なんですよ。この世にぼくというものが生まれてきて、何も「名を成さず」、「ひっそりと片田舎で死んでいく」ということの耐えられなさ!

ところが、権威というのはまさに挑戦され、否定され続けるために存在するのである。

これではなり手が減るのも無理はない。

それでも、親だとか教師だとかといった職業は残る。それでどうなったかというと、職名はそのままに、彼らは権威を引き受けることをやめたのだ。「こうしなさい」というのをやめ、「あなたの思う通りにしなさい」と返事するようになったのだ。

それは、正しいようで正しくない。誰かが「いずれは間違っていたことが証明される」という立場を引き受けないと、何が正しいのかがわからなくなってしまう。

それがわからないから、「生きづらい」のではないか。

雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について』
これは乱暴な仮説かもしれないのだが、家族をもち、子どもをもつということがあれば、苦しみの質が「生きづらさ」というものではなくなるのかもしれない。たとえば生活苦や子育ての大変さ、あるいは親の介護の不安とかいうものはあるのだろうが、それを「生きづらい」という言葉で表現することはなくなるんじゃないだろうか。

親になるというのは、否が応でも子供にとっての権威となることでもある。

それゆえに、私は娘たちにこう言っている。

「我が家では、どんな時でも弾が正しい」、と。

それは、私が無謬でないこととは矛盾しない。むしろその逆だ。弾はしょっちゅう間違える。本blog名物のtypoを見るまでもなく。しかし「弾が正しい」としておくことで、娘たちは弾が間違っている場合にどう間違っているのかを説明し、実際に正しいのは何なのかを証明することを強いられる。もし私が「君の思う通りにしなさい」と返事をしていたら、娘たちが「仕事」から学ぶ機会がなくなってしまうではないか。

権威というのは、実に損な役回りだ。正直私も娘たちにはとっとと私からは「卒業」して、別の権威を見つけるなり、あるいは自ら自らの権威となって欲しいと心のそこから願っている。だからこそ「おともだち」としては振る舞えない。それではいつまでたっても卒業してくれないのだから。

しかし彼女たちが卒業してもなお、自分自身に対しての権威という自らの役割は、一生残る。

それに気がついているから、もう私は生きづらくはない。「きつく」はあっても。

Dan the Authority of His Own