ちくま新書松本様より献本御礼。
初出2009.02.06; 販売開始まで更新
何度も読んだはずなのに、これを読むまで気がつかなかった。
この随筆集こそ、近代的日本国民というものを創り上げた一冊だったのだと。
それゆえ、近代日本国民たるもの、今自分たちが話している言葉で読み返すべきなのだ。自分たちがどうなりたいかを知り、そしてそこまで自分たちがどれほど離れているかを確認するために。
源氏物語?後回しで結構。そこに書かれているのはたまたま別の国でなかった昔々のおとぎ話に過ぎないのだから。本書に書かれているのは、今そこにある--百四十三年を経てもなお、そこにありつづける--日本国民の、日本国民による、日本国民のための文書なのだから。
本書「現代語訳 学問のすすめ」の原著「学問のすゝめ」を知らぬ人はいないだろう。もちろん青空文庫にも収録されている。また、見てのとおり現代語訳もすでにいくつも存在する。
にも関わらず、なぜ斎藤孝は「車輪の再発明」ならぬ「再翻訳」をしたのだろうか。
目次この目次を見ると、カーネギーだのドラッカーだのを読まされている気になる。本書は実はそういう気分で読むべき本なのである。「昔のえらい人の古典」としてではなくて。ご存知のとおり、原著には「第X編」としか書かれていない。当時はまだ今のようなビジネス書のスタイルが確立していなかった。本来これは「大きなお世話」な改変である。それがマキャヴェリの作品だったらそうだろう。なにしろ....
「わが友マキアヴェッリ」文庫版 P. 134現代イタリアに、イタリア古文の現代語訳というものは存在しない。ために、私も日本人から、五百年も昔の史料を読むのは大変でしょう、と感心されるたびに、なんとも複雑な気分にさせられる。大変なのは、中世風に変形したラテン語や、現代イタリア語とは相当に違うヴェネツィア方言の場合で、フレンツェに関する限り、大変だなどと言ったら、イタリアの小学生に笑われるからである。
だから、七百年昔に書かれたダンテの『神曲』も、現代語訳の必要はないのである。地獄編の冒頭の部分などは、小学校四年で暗記させられる。
しかし、「学問のすゝめ」はこうである。
福沢諭吉 学問のすすめ「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
なんとか意味はわかるものの、とても現代人の文章には見えない。これでも、新字新仮名遣いなのである。カタカナとひらがなを転置しただけで、もう「昔のえらい人の古典」になってしまう。私でも敬して遠ざけずにはいられない。
しかし、マキャヴェリがあくまで「当時の現代人」、すなわち同時代人に対して「君主論」や「政略論」を書いたように、著者もまた同時代人に対して書いたのである。もし著者が現代人であれば、著者みずからが同新書に書き下ろしたか、あるいはブログで公開していたことは間違いない。
よって、現代人が読むためには、こうしなければならないのである。
PP. 9-10 初編 学問には目的がある人権の平等と学問の意義
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。
つまり、天が人を生み出すに当たっては、人はみな同じ権理(権利)を持ち、生まれによる身分の上下はなく、万物の霊長たる人としての身体と心を働かせて、この世界のいろいろなものを利用し、衣食住の必要を満たし、自由自在に、また互いに人の邪魔をしないで、それぞれが安楽にこの世をすごしていけるようにしてくれているということだ。
しかし、この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人も、金持ちもいる。また、社会的地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差と呼ぶべき違いは、どうしてできるのだろうか。
その理由は非常にはっきりしている。『実語教』という本の中に、「人は学ばなければ智はない。智のないものは愚かな人である」と書かれている。つまり、賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。
この初編に関して言えば、「近代的日本国民の心得」から「日本」を取り去っても成り立つだろう。そもそも原著が書かれた当時は、「国民」どころか「日本国」がまだ成立していなかったのだ。まさにマキャベリの時代の「イタリア」だ。それはまだ「国」ではなくていくつもの「藩」からなる「列島」の名前に過ぎなかった。そんな時代に「国民とはなにか」をたった一冊の本で啓蒙してしまった著者は、「国父」というより「民父」と呼ぶに相応しい。
そんな「臣民」ならぬ「国民」とは何で、どうあるべきで、そして同時代の「われわれ」がそうなるために何が足りないかを著したのが、本書である。そして読み進めるに従って、本書は「普遍的かつ模範的な近代国民像」を提示しつつも、「日本ならではの国民像」がしだいに明らかになってくる。
そして明らかになった「日本ならではの国民像」が、いかに当時から変わっていないかに、読者は文体の変容ぶり以上のショックを受けるに違いない。その理想も、そして現実も。未だに政府を「お上」と呼び、外圧にはへいこらする現代日本人を見て、著者はどう答えるであろうか。
さらに考えを推し進めれば、もう一つ変わっていないものがあることに気がつくだろう。いや、本書の時点からは「やや変わった」が、著者亡き後すぐ「そうなった」ものが。
それは、今や死後になったはずの「列強」である。日本は、「最後の列強国」だった。20世紀初頭の列強と、今のG8の顔ぶれで違うのはカナダぐらいだというのはなんという進歩のなさなのだろう。
著者は、実はアメリカ独立宣言の訳者でもある。著者ならオバマのスピーチも絶対翻訳してくれたに違いない。
日本は、そして世界は、当時と比べてどれほど進んだのだろう。
あれから我々はどれだけ学んだのだろう。そして学び損ねたのだろう。
しかし、著者ほどニヒリズムとは無縁な学徒もそうはいない。「学問のすすめ」で最もすすめたいのは、やはりこの結びだ。ここだけは、原著のままがいい。
福沢諭吉 学問のすすめ人にして人を毛嫌いするなかれ。
Dan the Learner
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。