文藝春秋より献本御礼。
時にフィクションは、深く鋭く現実を描き出す。事実は小説より奇であるのと同じぐらい、小説が事実より真であることもあるのだ。
本書「グローバリズム出づる処の殺人者より」は、ブッカー賞を受賞した、フィクションより真なノンフィックション。本書が描きだしている真は、インドの現実だ。
文藝春秋|グローバリズム出づる処の殺人者より(アラヴィンド・アディガ)グローバル経済の波に乗り、光を浴びるインド。だがそこには暗く淀んだ闇が??。 貧困の村に生まれ、その才覚により富裕な街バンガロールで起業家の従僕となった男。究極の格差社会をのしあがるべく、男は主人を無残に殺害……。インド訪問を控えた中国首相宛ての手紙として綴られるインドの闇と汚濁。異様な緊迫感の漂う本書を書き上げたのはインドの実業界をつぶさに見てきたジャーナリスト、だからここにはインドの真の姿があります。
本書のような、フィクションにノンフィクションを託して現状を訴える小説のジャンル名をなんと言うのか私は知らない。しかしそのようなフィクションはこれまでいくつも書かれてきた。「蟹工船」しかり、「阿Q正伝」しかり。マンガだと「はだしのゲン」もこれに相当するだろう。
これらのフィクションは「より多くの人に現実を知ってもらう」という点において、ドキュメンタリー以上の成功を納めてきた。なぜか知らないが、そこに物語があった方が読者は受け入れやすいようなのだ。
その一方で、「虚構をたのしむ」という小説の本来の役割から見ると、このジャンルは説教臭さが鼻につく「駄作」の宝庫でもある。この点ではマンガより小説の方が顕著で、「蟹工船」も「阿Q正伝」も私はそこに分類している。しかしブッカー賞はだてじゃない。このジャンルの小説としてここまで面白かったのは、「君のためなら千回でも」以来だ。そして、「現実を訴えるフィクション」でありながら読み味が重苦しくないという点において、本書は実に画期的なのではないか。
本書が訴える現実は、決して重苦しくないわけではない。本来の重苦しさは、著名な「現実を訴えるフィクション」に劣るものではない。しかもこの重苦しさは「現代」に由来しているに留まらず、「歴史」に由来している。ましてやインドである。その厚みは人類社会において中国のそれにひけをとらない。
にも関わらず、本書の読了感はなぜか「さわやか」なのである。しかもそのさわやかさは、主人公の罪に由来しているのだ。まるで塩を入れたらかえって甘くなったかのように。
P. 313ちがいますか?わたしはこの国を変えているものの一部じゃありませんか?この国の貧乏人がみんな苦戦している闘いに、わたしは勝利しませんでしたか?父親が受けた鞭を自分は受けまいとする闘い、名もない死体の山にまぎれて母なるガンジスの黒い泥の中で朽ちるのをこばむ闘いに。
邦訳も、またそのなんともいえない味を損ねるどころかひきたてているのもいい。邦題はひねりすぎているように感じる人もいるだろうが、しかし原題の"The White Tiger"ではガンジスの泥より深い書の山に埋もれてしまう。私は邦題の方を支持する。
今までにない味。ぜひご賞味のほどを。
グローバリズム没する処の一読者
フィクションですが、中国の闇に深く迫り、かつエンターテイメントでもあります。著者あとがきを読むと、その中国の深い闇がよりわかります。
http://www.amazon.co.jp/%E5%8D%81%E9%9D%A2%E5%9F%8B%E4%BC%8F%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E5%BC%B5-%E5%B9%B3/dp/4797483059/ref=sr_11_1?ie=UTF8&qid=1234931698&sr=11-1
訳者は中国の書店で地元の人たちに張平氏の作品がとても支持されているのを知り、個人的に著者と連絡をとり、訳し、出版社へ原稿を持ち込んで歩き、とうとう日本への作品紹介を実現した、これまた著者と同じくらい熱い方です。