うん、私もわからない。

生きている意味が圧倒的にわからない
生きている意味がわからない。

でも、わかる必要、あるの?

生きている意味を問う前に、あえて意味そのものを問うことの意味を考えてみることにする。そんな問いをすることそのもの意味があるのかって?

今、私なんて言った?「あるのか」って?意味は「あったり」「なかったり」と言ったりするけど、だとしたら「ある」ってなんだろう?

ここでドーナツに登場してもらおう。ドーナツは、まあたしかに「ある」。でもドーナツの穴は本当にあるのか?ある?でもドーナツがなくなったら穴もなくなっちゃうんだよ?てことは、ドーナツの穴というのは、むしろ「ある」というよりドーナツによって「作られている」って考えるべきだよね。

実は「ある」には、二通りの意味が「ある」。一つはドーナツのように、それだけで「ある」という状態。そしてもう一つは「ドーナツの穴」のように、なにかが「ある」ことによってはじめて「ある」という状態が生じる状態。

そうやって考えて行くと、「意味」というのはいわば「ドーナツの穴のそのまた穴」ということに気がつく。まず精神というのが肉体というドーナツの穴で、そしてその精神の穴が、意味。精神というのは肉体があってはじめて「そこにある」ものだし、そして意味というのは精神があってはじめて「そこにある」。

そう。意味というのは「ある」(being)というより、精神によって「あられる」(being been)なものということ。それに気がつけば、「生きていることに意味があるか」という設問は、まるでドーナツの穴が、「ドーナツはあるか」って問うてるようなものだ。生きていることに意味があるんじゃない。生きているから意味も「ありえる」のだ。

意味というのは、ある意味、意識さえすれば何にだって「ある」というより「見いだせる」。よく「夫婦岩」とかあるじゃない。それって人が勝手に「意味づけてる」ってことはわかるよね。「ただの岩」って言った途端、その岩からは「夫婦岩」という意味はなくなる。だからといって岩がそこからなくなることはない。

じゃあどうしろって?それこそ君の仕事じゃん。君の人生に意味をつけるのは。でも、一つ確かなのは、意味を付けるという行動は実に楽しいということ。

例えばここに111001011011000010001111111010011010001110111100111001011011110010111110という0と1の羅列があったとしよう。これ、そこに意味がないと思えば、ただのビットの連なりでしかない。しかしプログラマーであればそれが「小飼弾」をUTF-8で表現して、それを二進法で表示したものという意味を「見いだせる」。「だからどうした」と言われればその時点で意味は「なくなっちゃう」けど、もとから「あった」ものがなくなるわけじゃないんだからそれに意味がないことにはそれほど意味がない(笑)。むしろ「意味があった」というより「意味が見つかる」ことに意味がある。私にはね。

そうやっていろんなものに意味を付けたり見つけたりすることで、多分私の一生は終わってしまうのだろう。遊びきれないおもちゃを与えられた子どものような心境だ。「あって当たり前」だったものが実は「なかった」ら、確かに苦しいし空しい。でも「元からなかったもの」が作れたり見つかったりするのはうれしいし楽しい。

「生きる」は「ある」ことに対しては、「意味」よりずっと強い。だから安心して意味を求めつづけられるのではないかと、私は「生きる」を意味付けている。

Dan the Being, or Being Been