うん、確かに滑稽だった。
直感的な“滑稽さ” - Chikirinの日記ちきりんブログには、“直感的な滑稽さ”を感じたことに起因するエントリが結構あるかも、ということ。
元漁民な海賊も、「世界連合艦隊」も。
そしてなにより、あなた、が。
「世界連合艦隊」を派遣しているのは、誰か。
あなたであり、私である。
北朝鮮とかならとにかく、あなたと私がいる日本は民主国家という建前だ。そう、あなたと私は、日本の主。だから日本のやっていることに責任がある。たとえ実際にやっていることに反対でも、実行を阻止できなかった責任がある。反対どころか知らなかったとしても、今度は知らなかったことに対する責任がある。社長が「知らなかった」では済まないのなら、国民が「知らなかった」で済まされたら道理が通らない。
そのことを微塵も気にかけない、あなたが痛く滑稽なのである。
しかし、この「我らが滑稽」を「あいつらの滑稽」と取り違える滑稽を感じることが出来る人は実に少ない。「我ら」が大きくなればなるほど、この滑稽に鈍感になる。実家を嗤う放蕩息子の滑稽なら皆が気がつく。勤め先を嗤う窓際社員の滑稽もまだわかる。しかしこれが「我が国」だの「我が世界」だのになると、ほとんどの人が何も感じなくなる。私が彼らの痛みを感じられないほど鈍感だけなのかも知れないが。
私自信、この手の滑稽と無縁ではない。人一倍多くの言葉を、人一倍大きな声で語っている以上、人一倍痛く、人一倍滑稽なはずである。それでも、それが滑稽であることそのものは、痛みとして感じることは出来る。私が愛してやまない痛みだ。この痛みを守るためなら、「痛い奴」と呼ばれる痛みなぞいくらでも感受できるほどの。
だから。
痛みを与える側にあるより、痛みを感じる側でありたい。
揚げ足を取る側より、取られる側でありたい。
滑稽を嗤う側より、嗤われる側でありたい。
Dan the Painfully Ludicrous
ここはpainfullyでいいのでしょうか?
danさんが受容されようとしている「痛み」はpainなのですか?