半分、正解。

すなわち、0点。

天才も秀才も、コピーが上手でコピーしまくるが、一つだけ違いがある。

秀才は、それによって生じた「内なる違和感」を無視して、コピーし続けることが出来る。

天才には、それが出来ない。

天才は、その「内なる違和感」を得るがためにコピーして、そして内なる違和感と全面対決の末に今までなかったものを生み出す -- 生き残ることが、出来た場合は。

Thomas Edison - Wikiquote
Genius is one percent inspiration, ninety-nine percent perspiration.
トーマス・エジソン - Wikiquote
天才は1%のひらめきと99%の努力からなる。

洋の東西を問わず、このあまりにも有名な台詞は、「いかに努力が大切か」、あるいは「いかにコピーが大切か」を説くのに用いられることが99%以上だが、残念ながら、あるいは幸運なことにそれでは天才にならない。

天才を天才たらしめるのは、1%の方なのだ。

その1%とは、コピー元に対する「これじゃない」感なのだ。

「内なる違和感」、あるいは「これじゃない」感を放置できないのが天才である。

だから天才は不幸になる。地雷を見ると踏まずにいられないのだから。

私は、実は天才というのは意外に多い確率で存在するのではないかという感を年々強くしている。かつては「100万人に一人」だとか「1億人に一人」だとかと思っていたが、実は100人に1人ぐらいの高確率で存在するのではないかと感じるようになってきた。blogを読み書きするようになってから、その思いはますます強くなっている。

しかし天才として生きたまま認められるのは、あいもかわらず100万人に1人といったところ。別のいい方をすると、天才として生き残る確率は、「万が一」ということになる。残りの九千九百九十九人は、地雷に吹き飛ばされてしまうのだ。ほとんどの場合は「内なる天才人格」が死ぬだけで済むが、人格だけではなく心身ともに死んでしまう例も実はかなりあるのだろう。

そう考えていけば、天才が天災であることは疑いようがない。

違和感を、違和感ごとコピーできる方が、長生きできることも確かだ。

天才のほとんどは、ノーベル賞ではなくダーウィン賞 を受賞する羽目になる。そのことを思えば「天才だけはやめておけ」というのが善男善女のたしなみというものであろう。

なのに、なぜこれほど惹かれてしまうのだろう。

天才という、天災に。

Dan the Survivor