出版社より献本御礼。

書評が遅くなったのは、忙しかったということもあるが、「個人的事情」もある。それも実は二つも。とはいえ

が出た後なので、これ以上待たせるわけにも行かないだろう。

「良い」ではなく「いい会社」の、「いい経営」が、ここにある。

しかし、私がこの会社で幸せになることは、ありえないだろう。

本書「リストラなしの「年輪経営」」は、伊那食品工業株式会社の「再創業者」による社長本。社長本は少なくないが、2009年期のはじめの今、最も多くの共感を得られると思われる一冊である。

目次 - リストラなしの「年輪経営」 塚越寛 | ノンフィクション、学芸 | 光文社より
第一章 「年輪経営」を志せば、会社は永続する
第二章 「社員が幸せになる」会社づくり
第三章 今できる小さなことからはじめる
第四章 経営者は教育者でなければならない

本書に書かれていることに、さほど異論はない。伊那食品工業株式会社が田舎の中小企業かくあるべしという会社だというのは確かで、それは本書を読まずとも「かんてんぱぱ」を食べて「かんてんぱぱガーデン」に行ったことがある人であれば感じ取ることが出来る。

異論、というより違和感があるのは、本書に書かれていないことである。

一つは、寒天を作っていたのは別に伊那谷だけではなかった、ということ。峠を一つ超えた、諏訪湖のまわりでも作っていたのだ。実は私の父方の実家は、田舎の大地主であると同時に寒天屋でもあったようだ。どちらも祖父の代にほとんど食いつぶされていたのだが、私が子供の頃にはまだ辛うじて操業していたようだ。操業していたのは祖父の弟だったのだが、これが典型的な放蕩息子で、放蕩息子らしい放埒経営で家業を食いつぶしたようだ。「ようだ」と書いたのは、つぶれた時点ではまだ私は子供だったから。しかしその放蕩息子ぶりは私の成人後に確認している。我が家も多少であるが債務を踏み倒されたようだ。

そのこともあって、私は実際の寒天作りを目にしたことがある。あのテングサを煮る釜や、そこから立ち上る実に生臭い匂いも覚えているし、休耕田にずらりと干された寒天も毎冬目にしていた。寒天というのは、実はフリーズドライフード。原材料が海にあるのに山奥で作っていたのは、そこがフリーズドライに最適の地だったから。その点では伊那谷というのは標高が低く、冬の気温が下がらない分寒天作りには不利だったようである。

それを変えたのが、伊那食品。農家の冬の仕事だった寒天作りを、見事に工業化したのだ。そして工業化の例にたがわず、伊那食品の成長とともに「伝統的」な寒天作りも廃れていった。実家の寒天づくりがつぶれたのはあまりに祖父の弟が経営者として、というより社会人として能力がなさすぎたというのが原因なのだが、そうでないところも自然と廃れ、つぶれていった。そして伊那食品は生き残り栄えた。このあたりの事情は、寒天が特別というわけではない。本書には「市場がなかった」と書いてあるが、農閑期の仕事程度にはあったのだ。

私は、この寒天作りの光景が大嫌いだった。それは私にとって田舎のいやなものの象徴だった。愚かで(当時は)羽振りのよかった祖父の弟も嫌なら、そんな(文字通りの)たわけ者に頭を下げる地元の人々の卑屈さも嫌なら、製造が行われる冬もいやだった。全焼前の実家より寒い場所を私は知らない。風呂は家の外の離れだし、外とは縁側を挟んでいるはずの私の部屋の中で起床すると、前の晩飲み残した水が凍っている。その寒さが良質の寒天に欠かせないのだが、その事実はむしろ寒天作りへの嫌悪を強めた。

私が著者を掛け値なしに尊敬するのは、そんな「寒くて辛い」、田舎の冬の野良仕事だった寒天作りを快適な工場作業にかえたこと。著者がそうしたのは、「社員の幸せを露骨に追求」した結果。大地主の息子というだけでちやほやされていた我が親戚には、発想自体が不可能であっただろう。

しかし、私の幸せは、残念ながら著者に「露骨に追求」できるほど単純なものではない。その理念を理解すればするほど、私の著者の敬意とともに、著者の社員に対する思いに対する違和感も増していくのだ。

社員教育で教育勅語を使うのは、著者にとっては社員の幸せの追求かも知れないが、私には幸せの押しつけにしか感じられない。しあわせの形がいかに多様であるかに、私は今もなお驚かされる毎日だ。私はかんてんぱぱの幸せを多くの人が共感できることも知っているけど、それが私のしあわせといわれたらごめん被る。そもそも会社に限らずしあわせなるものを人様に用意してもらうことそのものに私は耐えられない。

もう一つ耐え難かったのは、一般論、というより都会的な事件に対するあまりに田舎者な反応。

P. 155
逆に「儲けることが正しい」と教育すれば、それに染まってしまいます。ホリエモンことライブドアの堀江元社長などは、その典型でしょう。ホリエモンは....

この話法に、私はテングサを煮るあの匂いより鼻が曲がる思いがする。この話法は別に著者の専売特許ではない。都会に済む田舎者もこういう話法を使う。その滑稽さに気づかないのが田舎者の証だ。それでもわからない田舎者のために、ちょっとだけ書き直してみよう。

経営の神様ことパナソニックの松下元社長などは、その典型でしょう。経営の神様は....

「ホリエモン」というより、呼称というものに対して失礼なのではないか。

「良い会社」の定義も、「いい会社」の定義も、会社の数だけあっていいと私は思っている。田舎の最大の欠点は、その「いい」をその土地にあった一つしか選べないことだ。著者もそれをよくわかっている。だからこそ伊那谷において「いい会社」にかんてんぱぱ、失礼、伊那食品工業を育てたのだ。読者にもそれがきちんと伝わるとよいのだが。表面的なありようだけを真似て社員の失笑を買う羽目にならなければよいのだが。

Dan the Rolling Stone