呆れた。
この記事に、ではない。この記事への反応に。いや、正確には、この記事に対するしかるべき反応がないことに。
一番失望したのは、親たちの反応。
id:pollyanna - pollyanna - はてなハイク子供と煙草を同列に比較することはできない、という理由をほかにも考えて、それらを並べてみたとき、無力感をおぼえた。
なぜ、親としての視点しか提示しないのだ。大人としての視点しか提示しないのだ。
君たち、自分が子どもだったことはないのか?
子どもは、大人になる。
喫煙者にだってなる。嫌煙者にだってなる。ワープアにだってなる。ミリオネアにだってなる。
タバコは、灰と煙にしかならない。
だから、この件に関して最も「自然」な反応は、他ならぬ自分が、タバコと同列に扱われた場合にとる反応のはずなのである。「おまえはタバコと同じぐらい迷惑な存在なのだ」と言われた場合の反応だって千差万別だが、「迷惑」なのが「他人」か「自分」なのかは、たばこにはわからずとも子どもにすらわかる。
なのに、おまえらときたら、自分はあたかもいきなり大人として生まれてきて、子どもだった頃がなかったのごとく反応している。
こういう、赤子を赤の他人として扱う姿勢こそ、赤木史観を生み出してきたおおもとじゃないのか?
赤木も、赤木だ。
折角のこの「おいしい極論」を、自分もかつて子どもだったことを忘れてしまったがために、記事のインパクトがあさっての方向に行ってしまった。もしそのことを少しでも思い出せたら、この記事はもっと意義のある釣りになったのに。
私には「個人が自らの幸福を追求するために子供を産み育てる行為」と「個人が自らの幸福を追求するためにタバコを吸う行為」に、大きな違いがあるとはまったく思えない。「子供を育てる行為は、子供を育てない人に迷惑をかけていない」と思うかもしれないが、家族を守ることが絶対善であるという社会通念によって、単身者がいかに不利益を受けているかを考えれば、煙なんかよりもはるかに迷惑な存在なのである。
赤木は、こう言うべきだったのだ。
私には「個人が自らの幸福を追求するために子供を産み育てる行為」と「個人が自らの幸福を追求するためにタバコを吸う行為」に、大きな違いがあるとはまったく思えない。どちらも自らの幸福を追求するという点は同じではないか。いや、大きな違いが一つある。子どもは長じて喫煙者になりうるが、タバコは喫煙者になりえない。その分だけ、子どもを産み育てるのは、タバコを吸うよりひどいとすら言える。タバコは燃えたら煙と灰になるだけだが、子どもは大人となり、個人が自らの幸福を追求する行為を通してさらに社会に迷惑な存在になるどころか、さらに子どもを作ることさえするのだから。
そして、こう書き加えるのである。
正直たばこがうらやましい。煙と灰になるだけなのに、社会はそれを問題として扱ってくれる。煙にも灰にもなれないワープアは、社会にとって存在しないも同様の扱いだ。そして扱われる際は、タバコよりも煙たい存在として扱われる。そうかも知れない。タバコは三兆円の税収をもたらすが、ワープアには税金を払う余裕すらないのだから。ましてや「明日の納税者」を生んで育てる余裕は、ない。
アナタはかつてコドモで、もしかして今もなおコドモかも知れないが、アナタはタバコだったことはないし、今後もない。
タバコとコドモの違いなんて、これで必要にして十分ではないか。
Dan the Man Who Used to Be a Child -- or Still a Child After All these Years
むしろ、冷静になって考えるとそれ以外に理由が存在しないから誰もが感情的に反発しているのではないでしょうか。
子供のため?
違いますよね。親が望まなければ子供は産まれないのですから。
社会のため?
違いますよね。仮に社会のためならば少子化が問題となったら産める限り作らなければならないでしょうし、そのような風潮は戦中の産めよ増やせよ政策だと否定されているわけで。
結局のところ個人の幸福追求のためとしか言えないのですし、生物的本能というのも子供を産み育てる事が「快」であると本能にインプットされているからこそ子供を産み育てるわけです。
そういう視点で考えると、子供を持ちたいが様々な理由で持てないという人は個人の幸福追求という意味で不利な立場に立っているということは否めないのですね。