著者本人より献本御礼。

2009.05.12 初出。原著に対する書評
2013.09.08 ブルーバックス版に更新

自筆サイン付き!(^o^)v←ゲシュタルト群化

そのサインには、「今回の本は一番気合いを入れて書きました」とある。「進化しすぎた脳」の著者がここまで言うからには、面白くないわけがない。

面白く「ない」わけが「ない」?

「面白い」と「面白くないわけがない」の違いは一体なんだろう?

そこにこそ、単純な脳が、複雑な心を生み出す仕組みがあった。

ゲーデル・エッシャー・バッハ」以来の Eye-opener, いや Mind-opener と認めるのに私は「やぶさか」では「ない」。

本書「単純な脳、複雑な「私」」は、今日本で最も飽きのこない農家学者、もとい脳科学者による、前回の「進化しすぎた脳」に引き続く「高校生のための脳科学」第二弾。今度は母校だ!ようこそ先輩!ところで、池谷先生の母校は男子校だったのだろうか?生徒の写真を見る限り男子しかいないようなのだけど....

目次
はじめに
第一章 脳は私のことをホントに理解しているのか
第二章 脳は空から心を眺めている
第三章 脳はゆらいで自由を作りあげる
第四章 脳はノイズから生命を生み出す
付論
おわりに
参考文献
謝辞

目次は、あえて短くした。長いとネタバレすぎると感じたので。本書はまとめてしまうにはあまりにもったいない本だが、それでもそれは不可能ではなく、そして詳細目次はまさにそういう構造になっている。そしてそれだけ取り出しても、本書の主題である「脳は実は単純だ。それでも複雑な心を生み出せる」は「わかる」。しかしそれでは面白くない、いや「脳っぽくない」。本書が400ページもあり、そしてその大部分が主題からやや外れた雑談であることに、重要な意味があるのだ。

それは、ゆらぎ。

これは、脳が自由を作りあげる上で、絶対不可欠なのだ。

「自由を作り上げる」?そう。脳は自由を作っているのだ。

このことを知るためだけでも、本書は買いである。

しかし著者は受動意識仮説の支持者でもある。これって自由意志を否定していたんじゃなかったっけ?

すごい本を読んだ - 「で、みちアキはどうするの?」
よく話題になる「手を動かそうと意志するより先に脳内では準備が始まっている」って話も、もっと驚くことが書かれていました。なんと「手が実際に動くより先に"手が動いた"という感覚が発生している」のだそうです。いやもう、あまりに"常識"から掛け離れたとんでもないことが書かれてるようで、すぐには理解できなくてここ何回か読み返してしまいました(笑)。でも、この言葉通り、なのだそうです。脳は一部未来を"先取り"して動くらしい。さらに、意識上の未来(脳的には現在)の情報を使って、意識上の現在(脳的には過去)の情報を書き換えたりもするらしい。

実はここまでは、前著「進化しすぎた脳」にも書いてある。本書の真の価値は、その先が書いてあることにあるのだ。

受動意識仮説が事実だとして、それでも自由意志は存在するのか?

その答えは、本書で。

しかし私の脳は答えを書かずにいられないので、それを知りたくない方はここでスクロールをやめて本書の購入リンクをクリックしてから本entryを閉じてほしい。そうでない方は、以下のアニメで緑色だけがぐるぐる回り始めてから、先に進んでほしい。

単純な脳、複雑な「私」 動画特設サイトより

その答えは、きわめて単純かつ巧妙だ。まさに絶妙。

心には、自由意志 = free will はない。しかし自由否定 = free won't なら、ある。

心は、「何をするか」を選べない。しかし「何をしないか」なら、選べる。

ここで、情動 = 心が意識する動き と 行動 = 実際の体の動きを、改めて順を追って並べてみる。

  1. 体:脳が準備する
  2. 心:動かすと念じる
  3. 心:動いたと感じる
  4. 体:実際に動く

心は、1を防ぎようがない。裸のピエールをカトリーヌは見ようとせずにはいられない。しかし、視線を動かすまえに、それを差し止めることは可能なのだ。あるいは、レストランでオーダーすることを考えてみよう。脳が差し出すメニューを、心は書き換えることは出来ない。しかしそこに乗っている料理を全て注文するのではなく、特定の料理だけを残して残りは注文しないことならできる。

そう。受動意識仮説が真でもなお、自由意志は存在しうるのだ。

絶妙なのは、それが肯定ではなく否定によって成り立っていること。なんとネガティヴ?でも本当なんだからしょうがない。しかもよく考えれば、こちらの方が単純なこともわかる。肯定から否定を作ることはできないけど、否定からなら肯定を作り出せる。NANDNORも、否定があるからこそそれだけで論理回路を設計できる。

遺伝子がデジタルだったことがわかったときに感じたあの感動に勝るとも劣らない感動を、私は覚えずにはいられなかった。

ただし、論理回路と脳の回路には重要な違いが一つある。それが、先ほどのゆらぎ。論理的には肯定と否定の否定は全く同一で、何度繰り返しても元の肯定をとりもどすことが出来るが、しかし我々の心は単純な肯定と否定の否定を同じだとは感じない。「肯定感」はほとんどの場合減衰し、しかし時には増強する。

なんて「フラジャイル」なのだろう。「なぜ、弱さは強さよりも深いのか」。それこそが、自由というものの正体なのだから。

論語に、こうある。

吾十有五にして学に志し、
三十にして立つ。
四十にして惑はず、
五十にして天命を知る。
六十にして耳順ひ、
七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず。

本書にも登場するこの「孔子の世代論」に、著者はこう感想を述べている。

P. 87
もっとすごいのは70歳ですね。「七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず」ということは、思いのまま行動して節度を外すことはないと言っているんです。つまり直感だけで行動しても大丈夫だと(笑)。そういう心の境地に、私は早く達してみたい。

しかしこれには、罠もある。

直感だけで行動しても大丈夫にする方法は、二つ考えられる。メニューを減らすことと、それに対する「自由否定」を強化すること。前者はゆらぎが減るということであり、そして後者は心が強くなることだとも解釈できる。成長、そして老化の過程においては、この二つは同時進行するはずだ。

そして私は「ゆらぎ」が少ない高齢者には、「頭の固い奴」だという印象しか抱けない。それは「従心」ではあく「従脳」、すなわち「従体」にすぎないのではないか。それに対しては、私はなけなしの自由否定を120%発揮したい。

私は今年、著者は来年、不惑を迎える。

その前に、本書に巡り会えたことが、心の底から嬉しい。

もう私は、惑うことに惑わない。

Dan the Negatively Negative