早川書房より献本御礼。

ゼロ=無が持つ無限の可能性を人類がどうつきあってきたかを語った渾身の一冊。これが面白くないという人は、ゼロを全く知らない人か神かどちらかだろう。そして、本書に何ら不満を抱かないという人もまた、そのどちらかだ。本書は不満が魅力となる、まさにゼロ的な一冊なのだ。

本書「異端の数ゼロ」は、ゼロという得意な数の歴史をたどった、類書ゼロの単行本を〈数理を愉しむ〉シリーズとして文庫化したもの。このシリーズは「はじめての現代数学」、「物理と数学の不思議な関係」など、傑作ぞろいで、そのことだけでも本書の品質がうかがえる。

第0章 ゼロと無
第1章 無理な話――ゼロの起源
第2章 無からは何も生まれない――西洋はゼロを拒絶する
第3章 ゼロ、東に向かう
第4章 無限なる、無の神――ゼロの神学
第5章 無限のゼロと無信仰の数学者――ゼロと科学革命
第6章 無限の双子――ゼロの無限の本性
第7章 絶対的なゼロ――ゼロの物理学
第8章 グラウンド・ゼロのゼロ時――空間と時間の端にあるゼロ
第∞章 ゼロの最終的勝利
付録A
付録B
付録C
付録D
付録E
訳者あとがき

にも関わらず、あえて不満から書くことにしよう。本書で最も不満なのは、漢数字とアラビア数字の使い分け。この点に関して作者はあまりに無頓着で、原著では sixty-nine と英語表記していたであろう部分まで「69」とアラビア数字で表記している。漢数字が出てくるのは「一般」や「二次元」など、単語の一部となっている場合のみ。他はとにかく、本書のコンテキストでこれは実に痛かった。

しかし、その翻訳の雑さを差し引いてもなお、本書は類書なき、すなわちゼロ類書な名著である。それは、本書がゼロについて書いてあるからではない。それであれば類書は少なくない。なんといっても「零の発見」という名著もある。本書がすごいのは、ゼロ=無が無限と直結し、それがゼロと人との関わりが一筋縄とは行かなかった理由であることを喝破し、その特異性を徹底的に考察していることにある。

ゼロ=無を認めることは、実は無限を認めることと同じなのである。そのことに気づいた西洋は、そこから目を背けてしまった。ルネサンスまで西洋が遅れた理由には、この「アリストテレスの呪い」がある。その一方、ゼロの有用性に早くから気がつき活用した東洋もまた、ゼロの本質に真正面から対峙したのではなく、都合がいいところだけを利用してきた。微積分発見の功績を西洋に譲ってしまった理由がそこにある。

この上なく便利で、そしてこの上なく怖い数字、ゼロ。その紆余曲折の歴史はぜひ本書で確認していただきたいが、やはり一番不満なのは、インド以東の歴史がほとんど出てこないことだろう。マヤ数字は出てくるのに(原著レベルで)漢数字が出てこないというのは、原著者の勉強不足も甚だしいと感ぜずにはいられなかった。それは単に世界の半分を無視することにとどまらない。漢数字というのは、ゼロがないことを除けばそのまま現在使われている数字システムに使えるほど合理的で、その合理性が日中韓の生徒たちに二年ものアドヴァンテージを与えているというのは、最近も「天才! 成功する人々の法則」も指摘するところである。

しかし、そこにゼロはない。ゼロがないからこそ、十百千万という「桁の名前」が必要となった。算盤には実は常にゼロが存在するのだが、それがゼロであることは華麗にスルーされ、結局日本においてはゼロは西洋から輸入しなおすことになったというのは「和算で数に強くなる!」にもあるとおりだ。

これほどおいしい話題を放置してしまったというのは、原著者も痛恨の極みなのではないか。

しかし、ゼロが無限と直結している以上、それゆえに無限の可能性を持つ以上、誰がどう書いても書き落としは存在してしまうのである。だからこうした不満というのは、ゼロの可能性に敏感な人ほど強く感じるのだろう。多いに感動して欲しい。ゼロの持つ無限の可能性に。そして不安に、そして不満になって欲しい。ゼロの持つ底なしの特異性に。

Dan the Singular Blogger