私もまた、この発言を眠たいものと感じた。

「紙の本は電子書籍に駆逐されない」と出版社CEO - ITmedia News
 「(紙の書籍が)こうした新しい選択肢に完全に取って代わられることはないだろう。両方のモデルがある程度統合されることになるのではないだろうか」とMondadoriのCEO、マウリッツィオ・コスタ氏は国外ジャーナリスト向けの会見で語った。
「もちろん、ある程度の“紙離れ”はあるだろう。だが、ページをパラパラとめくる楽しみや印刷された紙の味わい--そういったものはこれからも残っていくはずだ」と同氏。

その一方で、こうならないとも弾言できる。

紙の本が100%亡くなると断言できる、たった一つの理由 - 今週の天牌
何死ぬほど眠たい事言ってるんでしょうか。ある程度の紙離れどころか、紙の本は100%亡くなると断言できます。

理由は、まさに

紙の本が100%亡くなると断言できる、たった一つの理由 - 今週の天牌
断言できる理由、それは紙の本が"印刷"という技術だからです。

だから。紙は、技術であるがゆえに、それを完全に含む技術がなくならない限り、なくならない。

これの一番わかりやすい例題は、「なぜ、ポケベルは完全消滅したのにファックスはなくなっていないのか」を考えればわかる。ケータイメールというのは、ポケベルに出来ることを完全に含んでいた。ケータイメール⊃ポケベルだったのだ。だからポケベルは亡くなった。ケータイを含む電子メールに完全に呑み込まれる形で。

それではファックスはどうか。ポケベルよりロートルで、電子メールの添付ファイルで置き換え可能なはずで、実際それをやってくれる技術すらすでに20年前に確立されているファックスがなぜ亡くなっていないのか?

X ⊃ ファックス となる技術が、存在しないからだ。電話機はファックスを含まない。電子メールも然り。そして何がそうなることを妨げているかというと、紙の存在である。ファックスは、相手の紙に直接書き込む技術であるが故に亡くならないのだ。

それでは紙とはいかなる技術なのか。

それ自身がプレイヤーであり、常にプレイしているメディアである。

紙という技術の神髄は、そこにある。そしてそれこそが、

紙の本が100%亡くなると断言できる、たった一つの理由 - 今週の天牌
紙というのは情報(絵や文字)を伝えるメディアですが、音楽メディアの変遷を見て見ましょう。

音楽メディアに起こったことが紙メディアに起こらなかった理由なのである。音楽というデータは、エディソンの蓄音機以来、常にプレイヤーが必要だった。蓄音シリンダーがレコードとなり、レコードがCDとなり、オープンリールが(フィリップス)カセットとなり、DATとなりMDとなり、ステレオがWalkManとなりiPodとなっても、この点は全く変わっていないのだ。変わっていないが故に、メディアそのものは何度も代替わりできたのだ。

紙を置き換えるためには、「それ自身がプレイヤーであり、常にプレイしている」ことが欠かせない。その点さえ抑えておけば、何も木をパルプして作る必然性はさほどない。実際プラスティック製のものが一部出ている。が、それは材料の違いでしかなく、これらはたとえパルプで出来ていなくても「紙」と呼ばれ、これからも呼ばれ続けるだろう。

パルプ以外の「紙」をも含めての紙は、人類滅亡まで亡くならないだろうと弾言できる。何なら私の本全部をかけてもよい(誰がどう賭けの正否を判定するかはスルー:)。それもまた、それ自身がプレイヤーであることの必然的な帰結だ。紙がどうあるべきかを決めているのは、技術ではなく人体。あれ以上薄くしても厚くしても、めくるという重要な機能が損なわれてしまう。そして目は二次元しか捉えられない。「三次元を見ているじゃないか」という人は、目は表面しか見えないことを失念している。人体の目と手が変わらないかぎり--たとえば目に多層式光学ディスクを読むような機能が着かない限り--紙は紙のままでありつづけるだろう。

で、ここまでが長い前置き。

そろそろ紙で商売している人は、この紙の最高の特長こそが、実は最低の欠点でもあり、その欠点ときちんと向き合わないと紙はとにかくあなたが亡くなりかねないということを直視して欲しいのだ。

その欠点とは、不動産コスト。紙はかさばるのだ。

かさばるということは、所有コストが累進するということを意味する。本好きは見えない累進課税を支払っているに等しいのだ。

404 Blog Not Found:本を所有することの経済的異議
数冊なら机の上でもいいだろう。数十冊なら枕元でもいいだろう。しかし数百冊になると本棚は必須。数千冊を超えると本棚が日用品と干渉するようになり、そして数万冊となると不動産の問題になってくるのだ。

逆に言えば、この問題さえ解いてやれば、「書」はもっと読まれるのは確実で、そしてうまくやればもっと売れるかも知れないのだ。

すでに雑誌とレファ本の世界では、これが起こっている。「それ自身がプレイヤーであり、常にプレイしている」ことにこだわらなければ、書は紙で読む必要は必ずしもない。そして紙にこだわらなければ、書くのはもっと楽になるし、readはとにかくbrowseはもっと楽になる。雑誌もレファ本も、最初から最後まで通して読まないという点は共通している。ランダムアクセスであれば、プレイヤーとメディアが分離している、電子の世界の方がずっと優れているのだ。

ここまでは、我々が日々体感していることであり、わかりやすい。これらは「紙には出来ないこと」をやっているという点でも、紙を減らしはするが亡くすものではないという点もわかりやすさの一助となっている。

しかしそろそろ、「電子技術の特長を活かした」ペーパーレスではなく、「紙の欠点を克服する」ペーパーレスに踏み込んで欲しいのだ。さもなければいくら本棚があっても足りない。

この点において、日本は非常に残念な状態にある。何が残念かといえば、この問題に関して読み手が完全にスルーされていることだ。

ディスカヴァー社長室blog: 「グーグル和解問題」、どこが問題か? ●干場
もちろん、グーグルがスキャンして、世界の人々に、コンテンツが役立つ形にしてくれて、しかも閲覧料の一部もくれるというのだから、いいじゃないか、という考え方もあるだろう。読者の立場だったら、これほど便利なことはない。

でも、

そうした「実」よりは、そもそも、著作権者に無断でスキャンしてコンテンツを自分の所に事実上、独占的に集積し、そして、売る、ということに、たとえそれが、知の共有という高邁な理想から始まったものだとしても、違和感を感じる、というのがみなの思いじゃないだろうか? 資本とインフラに物言わせて、やったモン勝ち、早いモン勝ちみたいで。

日本で最も読み手視点が出来る出版社社長ですら、こうである。なぜ「我々がやりたかったことを Google にやられてしまってクヤシイ」ではないのか。なぜ本が好きな故に、本の(文字通りの)重さに苦しんでいる人々の気持ちを思い計れないのか。確かに Google は巨大企業で出版社は零細企業。講談社クラスですら年商たかだか2000億円。半導体工場一個作ったらすっ飛んでしまう。

しかし、提案は出来るはずだ。そしてそれが出来ていたからこそ、「たかが二兆円産業」以上のプレゼンスが出版業界にはあるのではないか。額で言えばパチンコの1/10以下だが、我々が感じている重要度は逆に10倍どころか100倍というのは私のひいきだろうか。

我々は、もっと読みたいのだ。それを可能にするにはどうしたらよいか。それをもっと考え、実行に移して欲しい。ダイナミックアークぐらいしかないのは、業界全体の怠慢なのではないか。

弾言しよう。

紙は、亡くならない。

しかしその紙の上にあぐらをかいている者は、亡くなる、と。

Dan the Bibliomania