血、じゃなかった、知、でもなかった、痴の匂いに惹かれて購入。

2009-05-21 - こら!たまには研究しろ!!
他分野の若手論客と話すのは実に楽しいんですよね.シノドスはその機会を十分(過ぎるくらい^^)に与えてくれる点で非常に刺激的です.

うん、面白かった。

バカの集まりというのは、外から眺めれば面白いものである。

本書「日本を変える「知」」は、著者の一人である芹沢一也が主催する「知の交流スペース」、「Synodos(シノドス)」におけるセミナーのやりとりをまとめたもの。

目次 - Amazonより
  1. 「経済学っぽい考え方」の欠如が日本をダメにする 飯田泰之(経済学)
  2. ニッポンの民主主義 吉田徹(政治学)
  3. 教育・労働・家族をめぐる問題 本田由紀(教育学)
  4. 日本ならではの「再帰的不安」を乗り越えて 鈴木謙介(社会学)
  5. 誰もネオリベラリズムを前面否定できない 橋本努(思想・哲学)
Amazonより
出版社からのコメント ●混迷の時代を生き抜くための、新たな「知」の羅針盤 ●経済学、政治学、教育学、社会学、思想・哲学の俊英が、混沌とした社会の糸を解きほぐす。

よーく見て欲しい。この「俊英」たちにないのはなにか。

そう。自然科学者がいないのである。数学者も物理学者も生物学者も、いない。

これが「『知』の羅針盤」だとしたら、この羅針盤には磁石は入っていない。

磁石が入っていない結果、どうなるか。

こうなる。

P. 73
【問2】本田由紀さんの質問
不断で無限の経済成長は可能なのでしょうか。広井良典氏は、資源の枯渇や環境問題、人間の欲望の有限性を指摘し、「定常型社会」への転換を提言しています。高度成長期を経て生活上のニーズがほぼ満たされた後の先進国社会は、後発国の追い上げの中で無理に経済成長しようとして過当な付加価値競争・コスト競争に巻き込まれているように思います。経済成長を無前提に是認してよいのでしょうか。

この質問そのものは、ナイーブではあるが「まとも」である。「まとも」でないのは、以下である。

【答2】飯田さんから、本田さんへの返答
不断で無限の経済成長は可能であり、それ以前に不可避だと考えています。

まさに

404 Blog Not Found:s/世界/市場/g であれば異論なし - 書評 - なぜ世界は不況に陥ったのか
以下の問題提起に対する答え。

Anyone who believes exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.
有限の世界で幾何級数的な成長が永遠に続くと信じているのは、キチガイと経済学者だけだ

を地でいっている。無限の経済成長を可能にするためには、まずもってその器である宇宙が無限でなければならないが、宇宙は極大の方向にも(137億光年)、極小の方向にも(プランク単位)有限であると物理学者たちは主張していて、私もそれに納得している。「飯田さん」は宇宙が無限である新たな証拠でも見つけたのだろうか。

少なくとも「本田さん」への解答において、彼が提示した証拠は「19世紀以降の社会・国民経済ではおおむね年率2%で潜在生産力が向上してます」という、単なる状況証拠にすぎない。たかが200年弱の、たかが一生物種の状況を見てこう言い切ってしまう経済学者という生き物の大胆不敵さに感嘆せざるを得ない。自然科学者の中ではとりわけ大雑把なことで定評がある宇宙物理学者さえ、一年にわずか5.74秒の水星の近日点移動に悩んだあげく、一般相対論に至ったというのに。

物理学以前に、無限というのは数学的に「数であって数ではない」。無限は「1,2,3...の大きなの」では決してないのだ。この無限の特異性に関しては「不完全性定理」と「異端の数ゼロ」を紹介しておくに留めるが、人文科学者たちにとっての「無限」はあまりに無限の可能性を秘めていて、無意味にしか感じられないのだ。

これはあくまで私見ではあるが、経済成長モデルというのは、「不断」で「無限」なのではなく、「断続的」かつ「有限」という、むしろ生物進化に近いものだと私は考えている。「断続的」はとにかく「有限」であることは確かだろう。ある「経済物」の成長はロジスティック式に従うが、イノベーションによって今度は別の「経済物」が登場するので、「大雑把」に観察すると今のところは幾何級数的に経済全体が成長しているように見えているというだけだ、というのが目下の私の仮説だ。

もちろんそのことは、もう経済成長の余地が残っていないことを意味しないし、また現時点における経済成長の必要性がないことも意味しない。少なくとも貧困博物館ができるまでは、経済成長は必要だと私も考えている。

しかしそのことと、「不断で無限の経済成長」は、全く別の話だ。「ムーアの法則」が今まで成り立ってきたからといって、素子を無限に小さくできると思っているエンジニアなんぞ皆無である。実際コンピューター・サイエンスの世界は、すでにポストムーアの世界に突入している。さもなきゃ今これを書いている私のMacBookにCPUが二つも入っているわけがない。プロのプログラマーとしてみれば、ムーアの法則が経済学者の言うところの経済成長と同じであれば楽なのにと嘆息せずにはいられない。

で、ここからは人文学者に対する、人文学的な仮説である。

なぜ人文学者は「知」というものに対してこれほど傲慢でいられるのか?

自然科学者もなしで、「正しい問題解決は、正しい『知』から」などとオビに書いてしまるのか。

研究対象に対する畏敬の念が絶無だからではないか?

自然科学者たちの、研究対象に対する畏敬の念は、門外漢にも伝わらずにはいられない。彼らを研究へと突き動かす力は、非科学的と言っていいほど感情的で、そしてその感情が畏敬である。私が知る限り、例外は一人もいない。

むしろ研究対象との「間合いの取り方」は、人文学者の方が「科学者然」としているようにすら思える。量子力学以上に、客観性が成立しづらい状況がそうしているのか、単に人文学者が鼻持ちならない人々なのかは無学者たる私にはわからない。が、少なくとも自然科学者からびしばし伝わってくる、あの研究対象に対する呪術的ですらある畏敬を、人文学者たちから感じ取ることは稀である。

しかし研究対象に対する態度はどうであれ、人が自然の一部である以上、自然科学抜きの「知」などありえないはずなのである。芹沢一也は死のドス、もといシノドスに自然科学者を招くべきである。彼らなくして、シノドスのこの「痴」からやまいだれが取れることは不断かつ無限にありえない。

Dan the Ignorant