ダイヤモンド社より献本御礼。
初出2009.06.17; 販売開始まで更新
私が言うのも変だが、邦訳を待ちわびていた人も多いだろう。私自身、前著「まぐれ」を読了後日をおかずして原著を入手して、「これはとてつもない。早く紹介したい」という気持ちを本日まで抑えてきた。
上下分冊は残念だが、しかしこの表紙絵の美しさは原著を凌駕している。そして、単に美しいだけではなく、つがいとなることで本書の本質により近づいている。それぞれ1,890円というのはさらに残念だが、本書を読了してなおそれだけの価値がないと感じるのは、価値感覚そのものが麻痺している人のみだろう。
で、本書をこれから読むみなさんにお願いがある。下巻を必ず読んで欲しい。いや、一冊しか入手する余裕がなければ、下巻の方を入手して欲しい。
そこにこそ、人としてさらに一回り大きくなった著者の成長があるのだから。
前著「まぐれ」(Fooled by Randomness)が現代経済学に対する「反」(antithesis)だとしたら、本書は現代経済に対する「合」(synthesis)である。「現代経済学」、ではなく「現代経済」。そう。本書は前著よりも一回り大きい。著者の器も、そして想定読者層も。
目次 - Amazonより
|
|
「ブラック・スワン」という言葉は、邦訳の登場を待たずして日本でも普及した感がある。言葉自体は前著「まぐれ」にも登場するし、それが実に分かりやすく的確な例えということもあって、すでに「読書する人々」の間では以下の意が常識となっている。
内容紹介よりむかし西洋では、白鳥と言えば白いものと決まっていた。そのことを疑う者など一人もいなかった。ところがオーストラリア大陸の発見によって、かの地には黒い白鳥がいることがわかった。白鳥は白いという常識は、この新しい発見によって覆ってしまった。
「ブラック・スワン」とは、この逸話に由来する。つまり、ほとんどありえない事象、誰も予想しなかった事象の意味である。タレブによれば、「ブラック・スワン」には三つの特徴がある。一つは予測できないこと。二つ目は非常に強いインパクトをもたらすこと。そして三つ目は、いったん起きてしまうと、いかにもそれらしい説明がなされ、実際よりも偶然には見えなくなったり、最初からわかっていたような気にさせられたりすることだ。
しかし、本書を読むまでは、あなたはブラック・スワンの真の姿を知らない。そしてブラック・スワンの正体を知らないということは、その呪いに翻弄されつつけるということである。
著者は、前著に「そこに問題がある」という指摘まではした。しかしこの問題に答えを提示したのは、本書が初めてである。前著は面白く、考えさせられる。本書は面白く、考えさせられ、そして感動させられる。私にとって、そしておそらくあなたにとっても、その答えは「まさか」ではなく「やはり」なのではないだろうか。
本書の翻訳の質は、前著と比較するとどうしても見劣りしてしまう。訳者が悪いのではない。著者がよくなりすぎたのである。「ギリシャ人をローマ人より好む」著者による前著は、やはりギリシャ人好みの、ありていに言えばいかにも頭のよい人の文体であり、訳出は difficult ではあるが hard とは言い切れない。しかし本書において、著者はローマ人はおろか、野蛮人=バーバリアンにも届く声で語っている。そう。語っている。書いているのではなく。頭がよいだけではだめで、「体もよく」ないとだめなのだ。そしてこの体の部分、「訳者必死だな」感がびしびし伝わってきて、しかしその必死感が空回り感をより強くして、かなり辛い。ちょっと時間を書けすぎたのではないか。原著の上梓は2007年4月、もう2年以上前である。「ついかっとなって訳した」ぐらいの勢いの方が原著の文体には合う。
一カ所だけ上げよう。
下巻 P.216私の美的感覚では、散文より詩、ローマ人よりギリシャ人、優雅さより挟持、教養より優雅さ、見識よりも教養、知識よりも見識、知性よりも知識、そして真理よりも知性の方が好きだ。原著は、こうである。
My aestheticism makes me put poetry before prose, Greeks before Romans, dignity before elegance, elegance before culture, culture before erudition, erudition before knowledge, knowledge before intellect, and intellect before truth.
英語を知らない方でも、原文の1,2,2,3,3,4,4,5とたたみかける感じが、2,1,3,2,4,3,5,4と骨折してしまっていることがわかるだろう。著者が日本語を解したのであれば、「散文といってもここまで散らばってないよ!」と苦笑いするのではないか。私であればこうしていただろうか。
私の美的感覚は、詩を散文より、ギリシャ人をローマ人より、挟持を優雅より、優雅を教養より、教養を見識より、見識を知識より、知識を知性より、そして知性を真理よりひいきしてしまう。
しかし度し難いことに、前著の「頭のよさ」は、本書において少しも損なわれていないのだ。これはきつい。智に働けば角がたつ、 情に竿させば流される、 意地を通せば窮屈だ。とかく、本書は訳しにくい。本書の elegance を保つのに訳者は懸命すぎて、本書の eloquence まで手が回らなかったのが残念だ。二年の月日があれば、なおのこと。
しかし、最も大事なことは、elegantかつeloquentに訳出されている。
それが、ブラックスワンの正体。
今から、その答えを書く。ネタバレといえばネタバレである。書くべきか書かぬべきか迷ったのだが、実は著者がすでにさんざん本書の外でも主張しているとあって、そしてネタがバレても本書の価値は損なわれないという手応えもあって、書くことにした。嫌なあなたはここでウィンドウを閉じていただいて頂きたい。
そうでないあなたは、以下のブラック・スワンを超えてスクロールして頂きたい。
ブラック・スワンの正体、それはあなたである。
私でもある。
それを確かめるには、最後のパラグラフを一目見るだけでいい。
地球の一〇億倍の大きさの惑星があって、その近くに塵が一粒漂っているのを想像して欲しい。あなたが生まれるオッズは塵のほうだ。だから、小さいことでくよくよするのはやめよう。贈り物にお城をもらっておいて、風呂場のカビを気にするような恩知らずになってはいけない。もらった馬の口を調べるなんてやめておこう。忘れないでくれ、あなた自身が黒い白鳥なのだ。読んでくれてありがとう。
実は、この結論は論理的には前著の結論と全く変わらない。
「まぐれ」 P. 301レイディ・フォルトゥナの意のままにならないのは、たった一つ、あなたの振る舞いだけだ。幸運を祈る。
しかし、この感じ方の違いは一体なんなのだろう。「幸運を祈る」という捨て台詞で終わった前著、そして「読んでくれてありがとう」という感謝の言葉で終わった本書。
著者は優先したのである。
強さよりも、優しさを。
If the book wasn't hard, it wouldn't be published. If it couldn't ever be gentle, it wouldn't deserve to be published.
とでも言わんがばかりに。
それは決して強者が弱者に見せる哀れみではない。レイディ・フォルトゥナの前では等しく弱者である著者の告白であり、運命は売っても自由は売らないという決意表明なのである。前著で著者は自らの無知を告白することによって知性を証明した。そして本書で、著者は自らの無力を告白することによって強さを証明したのだ。
ブラック・スワンは、あなたであり私である。
それだけわかれば、十分だ。
Dan the One of Six point odd billion Black Swans


最後のブラックスワンはあなたであり、わたしであるにはがっくりきました。
個人的には、マーコビッツとシャープのノーベル賞とモダンポートフォリオ理論をこき下ろした部分が面白いと思いました。
しかしマンデルブロートのベキ乗数がなかなか決まらないのも弱い部分と思います。
「馬の口」、は贈り物のあら探しをしない、ってことですよね?