本書の編集者でもある、技術評論社稲尾様より献本御礼。
ぐっときた。こういうぐっと来る「IT創造論」は、「ハッカーと画家」以来かも知れないし、そして本書の重要性もそれに勝るとも劣らないかも知れない。
しかし、それ以上にその魅力を伝えにくい本でもある。よくもまあここまで「言葉にできない」ことを書く気になったものだ。うまく説明できるだろうか。トライしてみることにする。
本書「パターン、Wiki、XP」は、MLとWikiが一緒になった、画期的かつ創造的なツールである qwik.jp が著した、「時を超える創造の原則」論。副題の「時を超えた」のままより、「時を超える」の方がよいと感じたのは、それこそが主題であるパターン、Wiki、そしてXPの共通項であるからだ。こういう場合は過去形より現在形の方がしっくりくる。
そう、本書は、創造を現在進行形にするために、何が必要なのかを説いた一冊なのである。
目次 - パターン、Wiki、XP ―― 時を超えた創造の原則(WEB+DB PRESS plusシリーズ)|gihyo.jp … 技術評論社
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まずは本題に行く前に、お礼と業務連絡を。qwik.jp は、非常によく使わせていただいている。「小飼弾のアルファギークに逢ってきた」以来、今まで私が上梓した本では全て使わせていただいている。qwikのWiki機能では足りなくて「執筆場所」を引っ越したものもあるが、その引っ越し先もまたWikiだった。もはや私はMLとWikiがなかった頃、どうやって読み物を書いていたのかを思い出すことすら困難だ。その二つが一緒になったqwik.jpにはお世話になりっぱなしである。
それだけに、昨日新規qwikを開設しようとして出来なかったときにはちょっと蒼くなった。作成はメールで行われるのだが、確認メールが届かない。調べたところ、qwik.jpのサーバーがbl.spamcop.netに登録されていることを発見した。
早速私のSMTP Serverにqwik.jpのIPアドレスをホワイトリスト登録したが、全世界のqwikユーザーのうち、きびしめなスパム対策を講じているメールサーバーを使っている人が困っているかも知れないのでよろしく対処いただけたら嬉しい。
で、本題である。「時を超える創造の原則」とは、一体なんなのだろう。
『パターン、Wiki、XP』という本を書きました - えとダイアリーと思うんですけど、どうでしょうかね。本当にわかるかどうか、皆さんの感想をお聞きしたいと思っています。
著者も自身なさげなのは、わかる。著者がそれを知らないからではない。著者がこのことを体で知っているのは、本書を待たずして qwik.jp などの作品を見ればわかる。しかし創造するのと、創造の過程を言葉で説明することは別の話しであり、それが本書をとらえどころが難しい作品としているのは確かだ。本を読んでも自転車に乗れるようにはならないのと同様、本書を読んだだけの人には、本書の「時を超える創造の原則」はわからないだろう。
しかし、自転車に乗ったことのある人であれば、自転車に乗るということがどういうことなのかがわかるように、Wikiに書き込みしたことがある人であれば、またXP (eXtreme Programming; Windows XPにあらず)を体験したことがある人であれば、「ああ、これのことだったのか」というのが実によく伝わるようになっている。それが「ぐっとくる」という意味だ。
創造というのは、創造してみないとわからない。が、創造したことがない人というのは一人もいないはず。その意味において、本書は読者を選ばない。本書を理解するには、創造したときの「コレダ」感と「コレジャナイ」感さえあればよいのだから。
それでは、「時を超える創造」、すなわち一過性ではなく持続する創造には、一体何があるのだろう。
それが、パターンだ。
パターンとは何か。創造の部品でもあり、創造のひな型でもある。パターンがあることによって、我々は創造物自身に創造という行為を教わりながら、創造物の中で創造を続けることが出来る。そしてその創造の積み重ねがあらたなパターンを生み、そのパターンがまた創造を生み出す。「インターネットが死ぬ日」で最も多く登場する言葉、「生み出す力」の源泉が、ここにある。
パターンは、いつも創造者が気に入るものだとは限らない。「白紙の状態からやりなおす」人が耐えないのは、いかに万人が納得するパターンというのが生まれにくいかの裏返しでもある。しかし白紙からやり直した人が、「時を超えた」例は実に少ない。人だけではなく、創造環境もそうである。ブラジリアやつくばといった「白紙から描き直した」都市の魅力が、東京やパリの魅力になかなか敵わない理由がそこにある。パターンの力を借りにくいので、創造という行為により大きな力が必要となってしまうのだ。
この「パターン」は、WikiのようなCGMにも共通している。すでに熟したパターンと、それにより築かれた豊富なコンテントを持つWikipediaのようなWikiサイトは、開設したてのWikiサイトよりずっと多くの創造を呼び寄せやすい。しかしそのWikipediaとて、はじめからうまく行っていたわけではない。百科事典を「書いてもらおう」というパターンのうちは駄目だったのだ。「ここで百科事典の編集に参加しよう」というパターンを得て、はじめてWikipediaは「時を超える」ことに成功したのだ。
パターンが先か、コンテントが先か。
まさににわたま問題だが、しかし本書を読了後は、「パターンがコンテントを生み、コンテントがパターンを磨く」という創造の「メタ」パターンを得ることになる。
本書には創造の道具の作り方は乗っていない。本書を読んでも qwik は実装できない。しかしそれが何のために創造され、どんな創造を生み出すのかは、わかる。技術者はもちろんのこと、創造に携わる人であれば、多いに得るところのある一冊。ぜひご一読を。
Dan the Generative
けれども、創造しているということに気がついている人は極僅か。
> その意味において、本書は読者を選ばない。
けれども、読者は本書を選べない。
その理由は
> パターンが先か、コンテントが先か。
> まさににわたま問題だが
鶏より卵が先であると気がついている人も極僅かだから。
そして、それに気がつき始めているのが本書。
見えもしない感じもしないからこそ選べない、
そんな人に気がつく機会を与えてくれる。