先ほど投票をすませた。期日前投票するつもりが、結局その暇がなかったからだ。当日投票であれば投票所は我が家の隣。実は時間は最短で済む--はずだったのだが、思いもかけないことがそこで起きていた。

行列、である。

生まれて40年。有権者となって20年。生まれてはじめて、投票所の行列というものを目にした。私の経験が少なくてたまたまそうなったのかとも思ったが、私より明らかに年長そうな出口調査員に逆インタビューしてみると、「こんなのみたことない」という答え。

Twitter / Kazutoshi Ono: なんかハッシュタグの前後にスペース入れ忘れたので再投 ...
なんかハッシュタグの前後にスペース入れ忘れたので再投: ギルドオフで #LLTV に参加した人から話が出たんだけど、「LL Televisionのスピーカーって、世界を変えた人は一人でもいるの?」その点、 #tenka1 は常に世界を変えた人が最低一人は出てるね

実に若者らしい、無礼な勘違いだ。

勘違いしている点は、三つある。

一つは、世界というのは変えないと変わらない場所であるという勘違い。

世界というのは何もしなくとも変わってしまう場所である。小さかった宇宙は大きくなり、熱かった宇宙は冷たくなり、そして形あるものは壊れていく。「生きる」というのは、実はこの流れに逆らうことでもある。他から負のエントロピーを奪うことで「変わる」をそれに押しつけ、それによって「変わらぬ」ことを得るのが生物なのだ。生物は変わるからすごいのではない。変えないからすごいのだ。生物が変わるのは、変わることによってしか守れないときだけだ。だからこそ、「変える」はよほどのこと、なのだ。

「世界を変えた人は一人でもいるの?」と語った御仁も @lalha も、「どれだけ世界を変えた」かといえば、 @takahashim や私の足下にはるか及ばない。世界を変えていない者ほど、ものごとを「変える」でおしはかりたがるのは、「変わる」がわかっていないからなのだろう。

二つは、世界を変えるということはよいことだだ、という勘違い。世界は何もしなくても変わるものだと先ほど述べたが、それでも変わる速度は変えられる。そして変わる速度を変えたとき、それが「よいこと」である確率はぞっとするほど低い。21世紀のこの9年で、最も世界を変えたのは誰か?私は「アルカイダ」と答えざるを得ない。アルカイダは米国を変え、変わった米国が世界を変えた。オバマの"change"は「変わる」という点に関して George W. に及ばず、そして George W. はアルカイダに及ばない。

世界を変えるのは、簡単だ。よい方に変えることこだわらなければ。

そして三つ。世界は誰が変えているのかの勘違い。

「世界を変える」奴じゃない。

「世界によって変わった」人々、である。

世界を変えたのはジョブスじゃない。ジョブスの製品に対して何らかの行動を起こさずにいられなかった人々なのだ。Macをそのまま支持した人もいれば、Windowsを作った人もいる。そしてどちらを選んだにしても、選んでしまった人は、もう「それがなかった世界」にいたときとは同じ行動は出来ない。

世界を変える人なんて、いない。

いるのは人々を変える人だけだ。

そうした変わった人々が動いてやっと、世界は変わるのだ。

ピラミッドを作ったのはファラオなのか古代エジプトの民なのか。興味深いが重要ではない。

重要なのは、ピラミッドは民が動いてはじめて出来るのだということだ。

いくら偉大なファラオでも、民が動かなければお手上げなのだ。

日本の民は、実によく動く民だ。#lltvや#tenka1のようなイベントがあるたびにそう思う。世界をより「よい」場所に変えることに関しては、日本の民が他国の民にひけを取らない。それなのになぜか「日本の政治」というイベントに関して、民の腰は重かった。政治というものが、「変える方法を変える」というメタ変化だからだろうか。変えるのは好きだが、変え方を変えるのはいや、といったところだろうか。

ところが、「日本の政治」のために民が動いているありさまを、今回はじめて私は目にすることができた。いままで見逃していただけなのかも知れないし、今回たまたま動いている民だけを目撃しただけなのかも知れない。それでも、民が動いているという実感を得たのは、本当に今回がはじめてなのだ。

「それはよいことだ」と無邪気に喜ぶには、私はあまりに「変わる」を体験しすぎている。「変わった」が「よかった」になることというのは、実に実に実に稀なのだから。それでも願わずにはいられない。この「変わる」が「よい」になることを。

Dan the One of 100 Million