筑摩書房松本様より献本いただいたもの。紹介が遅くなってしまった。
これは面白い。あのつまらなかった教科書が、こうも面白く読めるとは。
そしてわかった。なぜあれが「日本語」ではなく「国語」と呼ばれているかが。
本書「国語教科書の中の「日本」」は、国語教科書の大人読み。教科書そのものではなく、教科書作成者の意図を行間に読むことで、「国語」とは一体なんなのかを明らかにしていく。
目次- はじめに
- 第一章 〈日本〉という内面の共同体
- 1 〈日本〉という枠組から見えるもの
- 「国語力低下問題」とは何か/「日本語の乱れ問題」とは何か/いま国語教科書は何が問題なのか/「グローバル化」の問題/PISA対策/「伝統」の問題
- 2 国境を内面化すること
- スポーツとナショナリズム/なぜ国民国家が問題なのか/ほんの小さな〈日本〉/「おむすび」の意味/少年の思い出と母の役割/少年の日を思い出す意味/「昔はよかった」というコンテクスト
- 3 空疎な〈日本〉/ねじれる〈日本〉
- 「日本語」でなく、「国語」でいいのか/『「国語」という思想』について/日本語は豊かか/「平和教材」とはどういうものか/「平和教材」には国民的コンセンサスを……
- 第二章 自然を内面化すること――小学国語
- 1 動物は「他者」だろうか
- 動物化とはどういうことか/動物と自然と人間と/擬人化される動物/動物は他者ではない
- 2 小学国語にこそ哲学がある
- 動物の王国から(目次)/ついに現代の父親登場/手紙は届くか/児童も成長する読者だ/感覚的な文章/道徳から少し離れて(目次)/理科の教科書のような/物語は現代もの/社会的な広がり(目次)/「かわいがる」を知らない野良猫/他人の「痛み」がなぜ「わかる」のか/団地・マンション・女の子/読解以外の教材
- 第三章 家族的親和性を内面化すること――中学国語
- 1 「似ている」ことを教える
- 中学国語の中の動物/動物特有の「知性」/言葉に力はあるか/言葉は道徳なのか/こういう言葉論もある/メディア・リテラシーは可能か/最強の定番教材『走れメロス』/メロスの交換条件と物語の中心的な課題/メロスを疑うことができるか
- 2 バラエティーがある小説群
- バランスのいい百貨店(目次)/試験はどうするのだろう?/教材を選べるパルコ型(目次)/彼女は何でも知っている/自分という課題/ブランド商法(目次)/バリアフリーとユニバーサル/空を飛ぶ小説/何でも手に入るおしゃれなスーパー(目次)/家族の物語と友情の物語/読解以外の教材
- 第四章 『国語教科書の思想』その後
- 1 なぜ「国語教育」は「道徳教育」だと言い続けるのか
- 戦後の小学生/戦後のパラダイム・チェンジ/「道徳」とパラダイム/国語教科書は悲劇好き/ダブルスタンダードが前提の教室/心を傷つけない科目へ/PISA結果をめぐって、再び/国語における論理的思考
- 2 自由に読むことと「気持ち」を問うこと
- 不自由に読むこと/物語を二通りに読むこと/「悪」と「勇気」と/入試国語では何が試されているのか/なぜ「気持ち」ばかり問われるのか/イニシエーションとしてのセンター試験
- あとがき
では、「国語」とは一体なんなのか。
「日本語」 + 「日本」
というのが著者の答えだ。
それではここにおける「日本」とは一体なんなのか。
「日本(人)かくあるべし」という、作成者の願望、いや要望である。
本書には、本当の国語入試問題必勝法が登場する。いや、あの清水義範の傑作の方ではなく。こう書けば必ず正解という本来の必勝法だ。
P. 240実は、中学入試国語(の解くに小説問題)には、見えないルールがある。それは、教師や親といった年長の(特に男性)はまちがいをおかさない、あるいは正しいというルールである。これがどういうことを意味するかは、少しでも社会学やフェミニズムの知識を持った人ならわかるだろう。
言われてしまえばそれだけのことかも知れないし、私はこのことを知っていたが、言語化まではできなかった。なぜ「国語入試問題必勝法」があれほど可笑しいかといえば、国語入試問題というものが、見えないルールを見えなくするのにあまりに多くの言葉を裂くあまり問題の焦点がぼけてしまっているからではないのか。
blogのtypo王として今では有名、いや悪名高い私であるが、国語のテストの成績はよかった。「教師や親といった年長の(特に男性)はまちがいをおかさない」という空気に対して鼻が敏感だったからだ。そしてそのことを、そうしてしまう自分をも含めて軽蔑していた。当然教師には嫌われていた。テストで正解を偽るほどには賢くても、軽蔑を韜晦するほどには賢くなかったから。
かくいう私が教科書の弁護をするのも変な話ではあるが、日本語に限らず言語を教えるにあたって、純粋なテキストを使うのはほぼ不可能だとは考えている。結局のところ言語というものが意思を伝えるためにある以上、意図 = コンテキストぬきのテキストは作りようがない。特にこれは小中学校という初期段階で顕著で、「言語で言語を語れる」ようになるのは、自然言語においても電脳言語においても中級者以上の話ではある。
しかし、そのことを差し引いても、国語は「国語」すぎるのではないか。
「高校生のための文章読本」p.208
- 良い文章とは
- 自分にしか書けないことを
- だれが読んでもわかるように書いた文章
これこそが良い文章に関する最重要の定理だと私は常々思っているが、「国語」においては2.の優先順位があまりに高く、しかもその意図を隠すために「だれが読んでも誰が正しいのかを、なるべく誰にもなぜその人が正しいのかを悟られずに書いた文章」になってしまい、「だれが読んでもわかる」すら失われてしまっているというのが、著者と一緒に教科書を「読み直して」みた感想である。
著者は懸命にも--あるいは臆病にも--教科書の「意図」を指摘するのみで、批判は加えていない。それは読者の仕事ということなのだろう。
そう。読者の仕事。今後求められる「日本語力」は、「誰が読んでもわかるべきことが読める」能力ではなく、「自分にしか書けないことを書く」能力である。それは「私語力」ということではない。それであればわざわざ教える必要はない。「だれが読んでもわかるように」書くことはますます重要になる。社会が複雑になり、共通項 = 常識が減る以上、「行間を読ませる」、いや「押し付ける」ことはますます困難になる以上、「だれにもわかるよう」前提条件を明示的に書く能力というのはますます欠かせなくなるのだ。
平たく言うと、「名文より明快文」ということである。
今必要なのは、「国語」ではなく「日本語」だ。
文学の皮をかぶった道徳ではない。
Dan the Nullingual
日本語、国語を深く知りたかったら、江戸時代の国学者たちの日本語研究を勉強しないと、なかなか妙味は味わえません。
そういってる私も、歴史的仮名遣いは使いこなせません。この点では、小堀桂一郎先生や長谷川三千子先生には敬服しているものです。
このブログの読者の皆さん、どうかぜひ図書館ででも借りて、福田恒存著「私の国語教室」を読んでくださいませ。