うちにはまだ「目立つ力」は届いていないのだけど、鼎談の内容はよく覚えているので。

[を] 「目立つ力」は勝間和代のブログ論の集大成である
小飼 公の場では、プライベートな場よりは傲慢にふるまうべきです。ずうずうしいくらいでちょうどバランスがとれると思います。
勝間 それはそうですね。傲慢というか、自分を前面に出していい。
小飼 要するにへりくだらない。むしろ、1対1で会ったときにへりくだったほうがずっと好印象です。(p.238)
方針としては良いですが、まあ状況によりますね。

いや、状況によらない。

発言の大やけど、もとい公度が高ければ高いほど、より傲慢にするべきというのは、例外なき法則と弾言、いや断言する。

傲慢は表現を簡潔にする

  1. 傲慢は表現を簡潔にする
  2. 傲慢は表現を簡潔にします
  3. 傲慢は表現を簡潔にするはずです
  4. 傲慢は表現を簡潔にすると思います

この例を見れば分かる通り、同じ内容でも、傲慢度が上がるほど簡潔度もましている。この原理は、言語を問わず成り立つ。へりくだった表現ほど多くの言葉が必要になるのだ。

公言が特権であった時代であれば、そこにおいてへりくだる贅沢も許されよう。しかしこれだけ公言が溢れ、そして公言が求められている時代、それは不要どころか、受け手の時間を奪う表現メタボとでもいうべきものなのだ。

傲慢は強く速やかに訂正される

傲慢な発言に対しての反論は、当然検挙な発言に対するそれよりも厳しくなる。

それが、いいのである。

それは、元発言が間違っていた場合においてはより速やかに間違いが正されるということであるし、そして正された発言がより広く伝わるということを意味する。

あなたは、それにより傷つく。しかしそれによって公はより正しい意見を手に入れることが出来る。

公にとってどちらが得かは言うまでもない。

傲慢はあなたに研鑽を迫る

だからといって発言者は傷ついてばかりはいられない。当然それを避けるためには、発言前に自らの意見をより厳しく検証することとなる。結果、発言者の言動はより研ぎすまされることとなる。

http://twitter.com/yto/statuses/833905751
その分野について詳しくないならば、それについての批判は表現は穏やかにするべき。つまり自分が間違ってるかも、という謙虚さが必須。これ基本。

批判を穏やかにするより、用意を周到にした上で傲慢に振る舞った方が、少なくとも公は得をするし、長い目で見れば本人も得をする。

あまりに多くの人が、「傲慢な表現」と「傲慢な態度」を取り違えている。避けるべきは傲慢な態度の方であって、表現は積極的に傲慢にすべきなのである。「謙虚な表現」に対して「慇懃無礼」という表現もあるではないか。

そして実際のところ、謙虚な表現というのは受け手が十分少なくてはじめて成り立つ表現なのである。謙虚な表現とは、「である」調を「ですます」調にしろという単純なものではない。一番大事なのは、相手の立場をどれほど思い計るか、である。ところが、公言というのは誰が受けるのかはわからない。公度が高ければ高いほどそうなる。

さすれば、誰得な謙虚を捨て、傲慢に中味を語ることこそ誠意なのではないか。

言葉には必ず二つの「ペイロード」、あるいは「コンテンツ」が乗る。「何を言うか」と「どう言うか」である。傲慢な表現とは前者を重視することであり、謙虚な表現というのは後者を重視することだと言ってよいだろう。

これ以上続けると傲慢度が下がるのでまとめる。

公言においては、

傲慢は一人一時の恥。謙虚は万人万時の損。

Dan the Hubristic Speaker