著者より献本御礼。
本書は、リバタリアンというものを理解する上で、日本語で書かれた最も(優|易)しい一冊なのではあるまいか。
本書を読めば、よくわかる。
なぜリバタリアンは正しいかが。
そしてなぜリバタリアンは不人気なのかが。
本書「希望を捨てる勇気」は、リバタリアンとしてネットで最有力の論客である著者が、池田信夫 blogにおけるこれまでの論考をまとめたもの。
目次 - 「本」の検索と購入より
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リバタリアンに対する最大の誤解は、「自由のためなら雇用も福祉も何もかも犠牲にしてもよい、血も涙も自由に売り飛ばした輩」というものであろう。
違うのである。
「自由こそが、福祉を最大化する」というのが彼らの主張なのである。
それは、著者が本書第二章の冒頭に引用したミルトン・フリードマンの以下の言葉に集約されている。
自由より平等を優先する社会は、結果的にはどちらも失うことになる。
本書には、自由より平等を優先してきた日本が、その双方を失って行く姿が克明に記述されている。それは目次からも伺うことが出来るだろう。
著者に対するもう一つの誤解は、「経済学者の言うことをきちんと聞かないから日本(人)は駄目だ」と主張していると見なされていることだろう。それが誤りあることは、以下を見れば明らかだ。
P. 239 おわりに日本のように経済的に成熟した大国が急速な成長を続けることは不可能だし、それは望ましいとも限らない。多くの調査によれば、一人当たりGDPと「幸福度」の相関は低く、日本は所得は高いのに幸福度は世界で90位前後だ。単なる富の増大より、むしろ安定した生活や公平な社会を望む人が多い。所得の量を増やすことより、生活の質を高めることを考える時期だろう。
経済学では、単純な功利主義にもとづいて幸福(welfare)と富(wealth)を同一視し、資源配分の効率(つまり富の最大化)を目的としてきたが、これは自明ではない。行動経済学の実験によれば、多くの人が効率より公平を重視する。経済学では、効率と公平は別の問題だと考えてきたが、実際には両者はトレードオフがある。
これは現代の経済学に対する、極めて「まっとう」な批判ではないのか。
私は、著者の主張する「かくあるべき」に基本的に賛成だ。沈みつつある船から人を救うのに必要なのは 救命艇であって、三等船室にいる客を一等船室に移すことではないのだから。我々に必要なのはもっとたくさんの小さな船であって、大船の中で誰がどの部屋を取るべきかで争うことではないのだ。
だからこそ、著者を含めリバタリアンたちは、その「かくあるべき」に至る過程について、もっと考えた方がいいのではないか。
例えば、解雇規制の緩和。それ自体は「いずれは」雇用を増やすだろう。しかしそれだけは、救命ボートもないのに「海に飛び込め」と言っているのと同じではないか。
逆なのである。救命ボートが先なのである。
この順番を違えているから、リバタリアンたちの主張に誰も耳を貸さないのだ。
よって、主張すべきなのは、会社経由の福祉から、直接福祉への転換ということになる。逆説的ではあるが、むしろ政府を大きくした方が、会社も従業員も自由になるのである。このパラドックスは、以前
で指摘した。
いや、むしろ政府を二つ設けるという考えの方がよいかも知れない。「夜警担当」と「福祉担当」である。Warfare Government と Welfare Govenment というわけである。あるいは Paternal Government と Maternal Government。今の政府の問題は、父的な視点で母的の仕事をしていることにある。どういうことかというと「子はかくあるべき」というのを押し付けているのだ。誰が生活保護を受け取るべきから、誰が「額に汗水たらして」までいちいち決めている。「それがわかるほど父は賢くない」というところまではリバタリアンは主張しているが、「どの子も等しく子である」という母的政府が必要だという主張は至っていないのだ。
「小さな政府」とは、父的政府を小さくすることだ。政府ごとき、いや人間ごときにどんな子がいい子なのかなんてろくに分からないのだから。しかし、母的政府は、もっと大きくてよく、そしてもっと平等でなければならない。今の「母国」は、声高なおべっか使いばかりえこひいきしている。
父よりも厳しい競争が避けられないからこそ、母よりも優しい福祉があるべき。
希望を捨てる勇気より必要もの。それは結局正解--という幻想--を捨てる自由--な意思--なのではないだろうか。
Dan the Son of a Nation

この場合の「誰も」というのは、
「今現在、大船に乗っている人は誰も」
という意味ですね。
彼らのために、今現在、海で溺れかけている人たちの存在は無視しているのですね。