築地書館佐々木様より献本御礼。

「七つの大罪」シリーズで、私が最も期待していた本だ。

なぜなら、私は傲慢、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲の六罪は旺盛なのに、嫉妬を感情として感じ取れないから。「人の痛みがわからない人」というのは社会人失格宣言なのだが、しかし私に嫉妬の痛みはわからない。

だからこそ、せめて観測できるようにしておきたいのだ。

嫉妬という、感情を。

本書「嫉妬の力で世界は動く」は、「怠惰を手に入れる方法」に続く、七つの大罪シリーズ二冊目の訳本。

目次 - 嫉妬の力で世界は動くより
はじめに
第1章 誰もが感じる嫉妬のひらめき
Not Jealousy
第2章 世界を動かす嫉妬の力
Spotting the Envious
第3章 となりの芝が青いから……
Secret Vice
第4章 女性たちよ、ようこそ嫉妬の世界へ!
Is Beauty Friendless?
第5章 運がよくても嫉妬をされる
The Glittering Prizes
第6章 いつかは若さに嫉妬する
The Young, God Damn Them
第7章 仮面の下に潜んだ悪意
Knavery's Plain Face
第8章 終わりなき嫉妬の社会
Under Capitalism Man Envies Man; Under Socialism, Vice Versa
第9章 誰もが誰かのユダヤ人
Our Good Friends, the Jews
第10章 他人の不幸はどんな味?
Enjoying the Fall
第11章 あんな葡萄はどうせ酸っぱい
Resentment by Any OTher Name
第12章 嫉妬の毒を薄めるために
Is Envying Human Nature?
第13章 野心を抱き、嫉妬も抱き
Professional Envy
第14章 嫉妬からの自由を求めて
Poor Mental Hygiene
エッセイ 私は「嫉妬」に嫉妬する
by 香山リカ

前著「怠惰を手に入れる方法」と同様、本書もユーモアとアイロニーにあふれた一冊となっている。読者はちくちくとした痛みは感じると思われるが、「嫉妬の炎に身を焦がして」火傷することはないだろう。

ここで「思われる」「だろう」と書かねばならぬところに、私の苦しさがある。そう。本書の著者は読者に嫉妬という感情が備わっていることを大前提に書いているのだ。ところが前述のように私は嫉妬を感情としては備えていない。理性でなんとか補完するしかないのだ。

オビより
親友が不幸に見舞われたとき
心のどこかで
痛快に感じてしまう自分がいる
―ラ・ロシュフーコー

今日日のネットでは「メシウマ」という表現にまで昇華されたこの気持ちを、私はどうしても感じ取ることが出来ない。ある出来事を見て「あ、これはメシウマと呼ばれるのだな」という程度は予測できても、メシウマの味はさっぱりわからないのだ。私が嫉妬について語るのは、健常人が紫外線や超音波が感想を述べるようなものかも知れない。想はあっても感はない。

しかしこと嫉妬ともなると、感がないから無視するというわけにはいかないのだ。

なぜなら、七罪のなかで唯一これが、社会的な感情だからだ。少なくとも、最も社会的ではある。傲慢、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲は一人でも成立するが、嫉妬には他者の存在が不可欠。「色欲はどうよ」という意見もありそうだが、相手がいなくても欲情であれば出来るではないか。

ということは、社会は嫉妬という存在を大前提に出来ているに違いない。嫉妬の力で世界が動くのであれば、嫉妬が感じられないというのは世界がどう動くのかを感じる感覚が欠損しているということなのだ。

そして、嫉妬というのはするものだけではなくされるものにとっても害をもたらすという点で一段とやっかいだ。そして嫉妬されるためには、嫉妬する相手がまだ持っていないものを持っているに留まらず、嫉妬する相手が持ちたくないと思っているものを持っていないだけでも充分なのである。「嫉妬不感症」そのものすら、嫉妬の対象となりうるし、現になっているのだ。

だから私は、人一倍嫉妬の効用を探っているのだ。

たしかに、嫉妬の光景は端から見ていても見苦しい。最近もこんな光景が繰り広げられた。

生活保護者が嫉妬するのではなく、生活保護者に嫉妬できるほど嫉妬心が旺盛が彼らをうらやましいと言ったら異端尋問官に拉致されそうだが、実際そうなのだから仕方がない。

「うらやましい?なんだ嫉妬しているじゃん」と言うなかれ。「うらやましい」は嫉妬(envy)ではなく羨望(jealousy)である。ここまでは、私も感じる。人一倍敏感かもしれない。しかしその気持ちを癒すにあたって、私は「その羨望の対象を自分でも獲得しよう」という気持ちは湧いても、「そいつから羨望の対象をとりあげよう」という気持ちは全くおきないのだ。本書でも羨望と嫉妬の違いは最初に峻別されている。

嫉妬はなにももたらさないと人はいう。しかし私は、そういう人ほど嫉妬深いのではないかとも観じる--そう、「感じる」ではなく「観じる」--のだ。それが何かをなかなか言語化できなかったのだが、本書がそれを言葉にしてくれた。

P. 33
嫉妬深い人は、不正や不当を数え上げたがる。
「嫉妬の成分の一つは、正義を愛する気持ちだ」
ウィリアム・ハズリットは書いている。「わたしたちはいわれのある幸運よりも、いわれのない幸運にいっそう腹を立てる」と。

生活保護者に嫉妬する板の住人たちは、まさに生活保護という「いわれのない」幸運に立腹しているのだ

本書はこれをあくまで「ネタ」、すなわちアイロニーとしてとらえている。が、私はこれをマジ受けしているのだ。

嫉妬こそ、社会正義をもたらしてきたのではないのか、と。

第八章の原題は、「資本主義下で人は人を嫉妬し、社会主義下では反対である」である。反対にしても「人は人を嫉妬する」というところが著者一流のユーモアであるが、生き残った社会を見ると、いずれも資本主義と社会主義の折衷案となっているのは事実である。米国ですら完全資本主義ではないし、北欧ですら完全社会主義ではない。資本主義と社会主義というのは結局のところ「強欲指向」と「嫉妬指向」の違いでしかないのかもしれない。

嫉妬という毒は、強欲という毒の解毒剤でもあるのだ。

どちらの毒も捨てられないなら、毒をもって毒を制するしかないではないか。

本書自体は、嫉妬害悪説に立脚している。

P. 196
嫉妬は人間の本質かどうかは明らかではないが、これだけは確実に言える。解き放たれてしまった嫉妬は、取り付かれた人物の持つすべてを食いつぶしていくのだ。

私はこれが少々気に食わない。これを認めると、他の六罪の効用もすべて否定しなければならないからだ。そして前著「怠惰を手に入れる方法」が高らかに怠惰の効用を謳っているように、六罪にはいずれも効用があるのだ。忌むべきは過剰であって、感情そのものではないのではないか。

嫉妬と強欲を同時に手放すのと、両者に切磋琢磨させるのとどちらがよいのだろう。

一つ言えるのは、現代社会の形を作っているのは、後者の人々だということだ。

嫉妬不感症の私でも、そこまでは観じるのだ。

メシウマってどんな味なのだろう。私にはそれがわからないのに、しかしメシウマの味がわかる人々とつきあっていかなければならない。香山リカのように嫉妬に嫉妬できたらよかったのに。

Dan the Envy-blind