本当に以下の通りとなった。
404 Blog Not Found:孤独解消型数学入門 - 書評 - 数学ガール/フェルマーの最終定理次はゲーデルの不完全性定理をおながいします>hyuki。
となれば読まぬわけに行かない。
本書「数学ガール/不完全性定理」は、「数学ガール」「数学ガール/フェルマーの最終定理」に続く数学ガールシリーズ第三弾。テーマは、不完全性定理。前著の「釣り」、すなわち「これを読んでも主題はさわりだけしかわかりません。でもその過程で数学のさまざまな側面が学べます」とは異なり、本書では本当に不完全性定理を証明する。少なくとも第一不完全性定理は、「要約なし」で証明している。
目次 - 第3巻『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』より。- あなたへ
- プロローグ
- 第1章 鏡のモノローグ
- 第2章 ペアノ・アリスメティック
- 第3章 ガリレオのためらい
- 第4章 限りなく近づく目標地点
- 第5章 ライプニッツの夢
- 第6章 イプシロン・デルタ
- 第7章 対角線論法
- 第8章 二つの孤独が生み出すもの
- 第9章 とまどいの螺旋階段
- 第10章 ゲーデルの不完全性定理
- エピローグ
- あとがき
- 参考文献と読書案内
それを考慮しても、本書は長い。不完全性定理の証明だけであれば、400ページもいらない。事実Goedelの論文は、訳本でも文庫本でわずか50ページ少々。訳注を加えても70ページを切っており、同書の残り2/3は解説である。一般書であり、また一般書であるがゆえに無限の解説に始まり、対角線論法を経て不完全性定理に至る、現時点で不完全性定理に関する一般書で最も優れていると私が感じている「不完全性定理 - 数学的体系のあゆみ」(野崎本)でも、200ページ強の文庫本に収まっている。それでは「ゲーデルの哲学」のように、天才ゲーデルの人なりについても書いてあるのかと思いきや、それにはほとんど触れていない。本書に登場する人物は、ミルカ、テトラ、ユーリの数学ガールズたちと「ぼく」だけであり、本書にカントールやゲーデルという単語は発見者以外の意味を持たない。
これだけ魅力的な主題と、これだけ魅力的な登場人物、しかも「ぼく」の世界に紹介するにふさわしい人物たちをさしおいて、野崎本の倍のページを割いてまで数学ガールズと「ぼく」が探求したのは一体なんだったのだろうか。
それは、我々がどうやって無限を捉えているか、ではないのだろうか。
「無限とは何か」、 What is Infinity ではなく、 How to harness Infinity である。
実は、その方法は一つしかない。
自己言及、 self reference である。
これだけが、我々が現時点で知っている「無限をつかまえる」方法である。
本書では、これを徹底的にやる。0.999... = 1にはじまり、ε-δを経て、もちろん対角線論法を通った後、ゲーデルとやった方法と同じ方法--そう、ゲーデル数を使うあの方法--で、不完全性定理を証明する。正直著者がゲーデルと同じ登山道を登場人物たちに使わせるとは思わなかった。今ではもっとシンプルな方法がいくつもある。たとえば論理を数にマップする方法一つとっても、我々はゲーデルよりもエレガントな方法をすでに知っている。あなたが今お使いのコンピューターは、そうして数=バイト列にマップされた論理=プログラムを実行することで、この記事を表示している。
アラン・チューリング - Wikipedia彼の重要な論文 "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"(「計算可能数、ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」、1936年5月28日)で、チューリングマシンという概念を導入する事でアルゴリズムの概念を定式化し、1931年にゲーデルが発表した不完全性定理を別の形式で公式化した。
プログラマーである著者であれば、むしろこちらを使うと思ったのだが。実際不完全性定理の導出にあたっては、ゲーデルの記述をそのまま使うのではなく、たとえばIsProvable(x,x<x>)
というプログラミング言語的な表記法を採用している。にも関わらずチューリングルートではなく、ゲーデルルートなのである。
それゆえ、本書はシリーズ三巻の中で最も「こわい」ものとなっている。怖くもあるが、それ以上に強い。なぜこれほどまでに本書は「こわい」のか。
それが、自己言及なのである。
今のところ、我々はこれしか無限を扱う方法を知らない。別の言い方をすれば、有限である存在である我々は、自己言及というループの中に無限をいったん「閉じ込め」た上で、閉じ込めた無限を「有限的」に扱うことしか出来ないのだ。
不完全性定理というのは、つまるところ「無限を全て封じ込めようとしたら、いくらでも封じ込めない無限が飛び出す」ということでもある。しかも、あえて「全ての無限を封じ込めることができる機械」を仮定した上で、それに封じ込め不可能なものを食わせるというのがその証明法である。
それゆえ、不完全性定理というのは直感しやすい。小学生にも予感でき、中学生でも実感でき(実際ユーリは中学生だし、私が不完全性定理の証明を理解したのもその頃)、高校生でも証明を追うことが出来(残りの登場人物は全て高校生)、だからこそ大人は正視しがたい。それ以前に登場した数学の発見より格段にシンプルなこの定理の発見が20世紀というのは、個人的には数学史の最大の謎に感じる。
なんとも魔のよいことに、その数日前、「オスカー・ワイルドに学ぶ人生の教訓」という本が献本されてきた。そこにこうある。
ちょっとだけ誠実であることは危険なことで、
とても誠実であるということは、致命的である。
A little sincerity is a dangerous thing, and a great deal of it is absolutely fatal.
なぜ不完全性定理が20世紀に持ち越されたかという一番腑に落ちる説明はこれではないか。CantorとGoedelの人生を見れば、それがいかに真実かは公理のごとくゆるがない。不完全性定理を証明してしまうほど誠実で、そして死なない人物として、人類はGoedelを待つしかなかったのだ。そのGoedelですら深手を負ったのだ。簡単だからこそ危険なもの、それが不完全性定理だ。
さらに驚いたのは、同書の次のページだ。
賢い人間は、自分自身に対して矛盾している。
The wise contradict themselves.
賢いからこそ、
誠実であればこそ、
矛盾せずにはいられないのである。
そして、そこには自己がある。自己なしに我々は無限を「収める」ことが出来ない。そして「自己」が「無限」を収めたとき、そこに矛盾が必ず生じてしまう。
本書が冗長な理由、それはその痛みをやんわりと、しかしもらさず収めるためではないのか。
奇しくも著者は幸福の王子の訳者でもある。なんとWildeでつながってしまった。
そしてその痛みの向こうにこそ、本当の自由がある。
数学は、数学そのものからすら自由なのだ!
Cantorが生きていたら、驚喜をもってそれを迎えたに違いない。
私は神を信じないが、これは神を信じるものにとっても福音であることは間違いない。
神ですら、神の被造物である我々から自由を奪うことはできないのだ。
そして、その自由の裏付けに、自己がある。自分を見つめ直すときに無限が生まれ、そして無限を見つめ直すときに自由が産まれる。なんて痛い。なんて美しい。そして、なんて自由であることか。
「単純な脳、複雑な「私」」によると、我々には自由意志(free will)は存在しないのだそうだ。あるのは自由否定(free won't)。しかし否定しかできなくとも、我々は自由を獲得出来る。
自分さえ、そこにあるのなら。
Dan the Infinite Looper
があります。 これにつては ブログ http://blog.goo.ne.jp/naotomeguro に書きました。(誰も読んでくれないようですが。)
このミスは修正できるのですが、何故か約80年誰も修正していない。
コミック「JOJOの奇妙な冒険」1巻の「何をするだあー」みたいに。
ケンシロウが、あはあは笑いながらシンに向かっていき、不様に負ける話は、あっさり修正されたというのに。(関係ないか。)
修正されない理由の一つは定理自体は全く正しいことでしょう。
「修正して私に何の得がある。」というのがプロの本音らしいです。