新潮社足立様より献本御礼。
今までの「樹」本の中で、ダントツで最も「面白く」かつ「納得感」の強い一冊。
面白いという点において「樹」本は定評がある。「納得感」ゼロの「私家版・ユダヤ文化論」でさえ、面白いかったことは否めない。
それでは本書の「納得感」はどこに由来するのか。
そこに、本書の秘訣がある。
本書「日本辺境論」は、内田樹という日本人=「辺境」人が、日本という「辺境」に関する各論を、実に「辺境」人的なやり方でまとめた一冊。
目次 - 内田樹『日本辺境論』|新潮社より- はじめに
- I 日本人は辺境人である
- 「大きな物語」が消えてしまった / 日本人はきょろきょろする / オバマ演説を日本人ができない理由 / 他国との比較でしか自国を語れない / 「お前の気持ちがわかる」空気で戦争 / ロジックはいつも「被害者意識」 / 「辺境人」のメンタリティ / 明治人にとって「日本は中華」だった / 日本人が日本人でなくなるとき / とことん辺境で行こう
- II 辺境人の「学び」は効率がいい
- 「アメリカの司馬遼太郎」 / 君が代と日の丸の根拠 / 虎の威を借る狐の意見 / 起源からの遅れ / 『武士道』を読む / 無防備に開放する日本人 / 便所掃除がなぜ修業なのか / 学びの極意 / 『水戸黄門』のドラマツルギー
- III 「機」の思想
- どこか遠くにあるはずの叡智 / 極楽でも地獄でもよい / 「機」と「辺境人の時間」 / 武道的な「天下無敵」の意味 / 敵を作らない「私」とは / 肌理細かく身体を使う / 「ありもの」の「使い回し」 / 「学ぶ力」の劣化 / わからないけれど、わかる / 「世界の中心にいない」という前提
- IV 辺境人は日本語と共に
- 「ぼく」がなぜこの本を書けなかったのか / 「もしもし」が伝わること / 不自然なほどに態度の大きな人間 / 日本語の特殊性はどこにあるか / 日本語がマンガ脳を育んだ / 「真名」と「仮名」の使い分け / 日本人の召命
- 終わりに
- 註
それでは、「辺境」人的なやり方とは何か。
こういうやり方である。
はじめにですから、最初にお断りしておきますけど、本書のコンテンツにはあまり(というかほとんど)新味はありません
でも、新味があろうとなかろうと、繰り返し確認しておくことが必要な命題というのはあります。私たちはどういう固有の文化をもち、どのような思考や公道上の「民族誌的奇習」をもち、それが私たちの眼に映じる世界像にどのようなバイアスをかけているのか。それを確認する仕事に「もう、これで十分」ということはありえません。朝起きたら顔を洗って歯を磨くようなものです。一昨日洗ったからもういいよというわけにはゆきません。
本書の納得感、それは本書のオリジナリティの欠如から来ている。「私家版・ユダヤ文化論」のような面白けどトンデモな「樹」定義は本書には登場しない。いや、登場しえない。日本人にとって「異人」であるユダヤ人に関してなら調べもしないで「へえ、そうなのか」と感心してしまえることも、対象が本書の想定読者たる日本人ともなれば、その点に関しては「調べが付いている」。
だから、私も納得することが出来た。
と同時に再確認した。
私が、本書が言うところの「日本人」ではないということを。
日本人の両親から生まれ、日本国籍を持ち、そして今日本人の妻子を持つ私は、「辺境」人でないがゆえに、「日本人」ではないのだ。
実は、本書に対する最大に違和感は、「辺境」という言葉の使い方にある。著者--に限らず日本=辺境とする各論-において--は、「中華」の反対という意味で「辺境」という言葉を使っている。しかし、辺境には二種類あるのだ。
「中心」を脅かす存在としての、辺境と、「中心」に追従する存在としての辺境と。
前者には、中華帝国に置けるモンゴルや、ローマ帝国に置けるフン族などがあり、世界史における辺境はむしろこちらを指す場合が多い。
しかし、本entryをお読みのあなたの想定どおり、本書の「辺境」は後者の方である。私は、こちらの方は「辺境」と呼ぶより「終端」と呼ぶべきだと感じている。だから今まで「辺境」をカギ括弧でくくってきた。「辺境」を「終端」と言い換えるのであれば、本書に対する納得感はほぼ完全となる。
終端=terminal。文明の果て。オリジナルよりも洗練された、もはや別物としかいいようがない「真似もの」にあふれるところ。しかしそれであるがゆえに、「中心」に対して叛旗を翻すなど思いもよらぬところ。
それが、日本ではないか。
私は、辺境人であるが終端人ではない。だから「日本人」ではない。そしてこの国は実のところ「終端人でない辺境人」を厚遇してくれる。それもまた終端人の特長である。これが辺境人であれば、「身内」以外の辺境人というのは「外敵」なのだから。
「日本人」にとって自明なことが、私にはちっとも自明ではない。
これは九割は冗句であるが、一割は本気だ。私にとって日本が世界にとって必要なのかというのは、ちっとも自明ではないのだ。サンジャポに私が必要かどうかのほうがよっぽど自明だ(笑い)。だから、必要性に対する説明責任というのを、いかなる場でも忘れることはないし、説明を求められたら即座に説明できるようにしている。説明できなかったら「出て行く」しかないと心得ているからだ。
我が家にとって私はなぜ必要なのか。
日本にとって私はなぜ必要なのか。
しかし、ほとんどの日本人にとって、日本人であることは自明なのだ。
本書のもっとも重要な指摘がそこにある。日本人にとって日本というものはあまりに自明で、それが自明であることが、「外」の世界では少しも自明でないことになかなか気がつかないのだ。「日本人」でいながらそれに気づいた著者は慧眼である。
自らの存在意義に対する説明責任の免除。
これは、終端人の特権であり、他の辺境人にはないものだ。
終端たる日本に幸あれ。
一辺境人としての、願いである。
Dan the Stranger in a Strange Land
自己主張は強くないけれど、強力な日本は、世界に影響を与え続けている。普遍的なものを持ち合わせてさえいれば、チベットだって、アメリカに巨大な影響を行使できる。
終端は、朝鮮もベトナムも日本と同じくシナの終端で、後のモンゴルは、チベットの終端。ベトナムは、日本人が考える以上に日本に似ていると思う。チベットも、インドの終端といえば終端。チベット人のメンタリティーも、日本人に酷似しているそうだ。