以下の記事に、案の定の反応が来ている。
会社はヒマつぶし?:日経ビジネスオンライン「お金のため」「生活のため」なら、まだわかる。百歩譲って、たとえ本当に「暇つぶし」と思っていたとしても、それを大勢の人がいる講演会場や、初対面の講師の前で、普通は言わないでしょう。はてなブックマーク - 会社はヒマつぶし?:日経ビジネスオンライン
ん?じゃあお金の心配が無い人はなんで働いてるって答えるのが正解なんだ?
以下は、どちらも正しい。
- 仕事とは暇つぶしのことである。
- 「仕事とは暇つぶしのことである」と職場で言うな。
実は仕事どころか、人生そのものが暇つぶしだということ、すでに何度も書いている。拙著「働かざるもの、飢えるべからず」でも、「『働いている』人なんて元々存在しない」という「公理」から直に導き出される「最重要定理」として扱っている。
しかし、それが事実であることと、それを職場で言うのとは意味が全くことなるのだ。「Aである」と「『Aである』はBである」は、別の問題である。ブックマーク主はこの二つを混同している。
それでは、なぜ「『仕事とは暇つぶしのことである』と公言すべきではない」のか。
この設問には、逆設問で答えるのが最短距離である。
それでは「仕事は暇つぶし」であると公言している諸君にお尋ねする。
あなたは、そう公言している人に仕事を頼みますか、と。
「いや、頼む」という人は、本当に仕事場で暇をつぶしている人に仕事を頼んだり、そういう人からモノを買ったりしたことがない人である。そういう人は中国の地方都市のデパートに一度足を運んでみるといい。本当に職場で手持ち無沙汰にしている小姐たちが何人もいるから。出来れば土産の一つでも買おうとしてみるといい。「電球を変えるのに何人の○×が必要か?」という問題を思い起こさずにはいられないだろう。
いや、中国にはもういないかも知れない。それくらいかの国の変遷は激しい。米国の地方都市のさびれたショッピングモールの方が同様の経験はしやすいかも知れない。日本の地方都市のデパートにも、そういう光景は残っているかもしれない。
本題に戻ろう。
あなたは閑古鳥が鳴いている店からものを買いたいですか?
それとも繁盛している店からものを買いたいですか?
むしろ「仕事とは暇つぶしのことである」という人ほど、閑古鳥が鳴いている店は避けているのではなかろうか。
この「パラドックス」は、実はパラドックスではない。「仕事とは暇つぶしである」とも矛盾しない。結局のところ、誰かと仕事をするということは、誰と暇つぶしをするかという問題でもあるからだ。誰かと暇をつぶすのであれば、それが暇つぶしであると気づかないほど楽しく有意義な暇つぶしにしたくはないだろうか。
十分高度な暇つぶしは、仕事と区別がつかない。
のであれば、それを仕事と認めてもらうためには、あなたの暇つぶしは十分高度でなければならないのだ。
何をもって十分高度とみなすか。
客としてのあなたが、今そこにいるあなた自身に仕事を頼むかどうかではないのか。
これは、就職活動におけるたった一つの冴えた質問でもある。
以上を踏まえて、お金の心配がなくなってしまった私が最初の質問に対する正解をお答えしよう。
あなたの暇と私の暇を、それが暇つぶしとわからないほど楽しく有意義につぶすためである。
あなたにとっての本blogが、そういう暇つぶしでありますように。
Dan the Player of the Game
「『働いている』なんて元々存在しない」ということをいうために、米の例をなぞなぞとして本の先頭で出したのは、その本で述べることを読ませる前の一種のショック療法ではないかと思います。
これまでの常識を覆すことを受け入れさせる前に、読者の常識をまず「崩す」ことが狙いかと。
ただし、僕のように「全ての事象に意味などない」と言ってしまって「更地」にしてしまっては、自分が行う主張のところまでわざわざ構築する必要があります。それでは本が冗長になってしまう。そこで、半ば強引に米の例で自分の主張が通る“ちょうど良いところ”まで破壊したのではないかと。
そして、なぞなぞとするところにしたたかさを感じます。
ただの主張では押し付けがましい、完全にねじ伏せるのではなく「一本とられたなぁ」くらいの感じをねらっているのでは?
ちなみに、収奪は言いすぎかと。
なぜならば、米は稲の果実であり、種ではないからです。このことは植物と動物との間に相互依存がある可能性を示しています。
実際、稲は人の力によりありえないほど繁栄しているわけですから。