集英社新書編集部より献本御礼。

前作「自由をつくる 自在に生きる」に力の入った一冊。その力の入れようは、今まで未公開(だよね?)だった著者近影が入っていることからも感じることが出来る。

この手応えは、「本物」だ。

本書「 創るセンス 工作の思考」は、著者による自由論にして自由術である「自由をつくる 自在に生きる」に続く、工作論および工作術。前著にも増して手応えが大きかったのは、もの作りが好きだけど「不得手」で、しかし物語作りで本人の想定以上の成功をおさめた著者の境遇と私のそれが似ているからかも知れない。

目次
1章 工作少年の時代
2章 最近感じる若者の技術離れ
3章 技術者に要求されるセンス
4章 もの作りのセンスを育てるには
5章 創作のセンスが産み出す価値
ソデより
かつての日本では、多くの少年が何らかの工作をしていた。しかし、技術の発展で社会が便利になり、手を汚して実際にものを作るという習慣は衰退し、既製品を選んだり、コンピュータの画面上で作業することが主になった。このような変化の過程で失われた、大切なものがある。それは、ものを作ったことのない人には、想像さえつかないものかもしれない。「ものを作る体験」でしか学べない創造の領域、視覚的な思考、培われるセンスとは何か。長年、工作を続けている人気作家が、自らの経験を踏まえつつ論じていく。

こうまとめられると、あたかも「近頃の若いものはなっとらん」という文章が想起されるが、著者は「工作の衰退」という現象は否定していない。むしろ肯定気味でさえある。かつては達人にしか手に入れられなかった作品が、わずかなお金を払うだけで商品として手に入れられることはいいことであるとはっきり述べている。いいことだから社会はその方向に進む。これを書いている今も邁進している。この流れは止められない。

かつては何億人が数個作っていたものが、数社が何億個も作るようになった時代。しかし手を通してしか学べないことは今も確かにある。ヒトが人である限り、見聞きするだけではわからないことが確かにあるのだ。

ヒトが万物の霊長となりえたのは、頭が良かったからでは断じてない。手が器用だったからだ。頭がよいから手が器用になったのではない。手を器用にするために頭をよくしたのだ。

それでも「器用さが足りない」からこそ、会社を作り、工場を作り、自ら工作するに飽き足らず工作機械を作るようになったのが我々だ。そして今では工作機械なしでは作れない製品に24時間囲まれて我々は暮らしている。これを書いているのは iMac 27インチの上だが、合計8GBのDRAMに積まれているトランジスターとキャパシターの数だけでも687億個にもなる。もはや手作りしようがない。

そして、我々の多くが「手持ち無沙汰」になった。

著者は--そして私も--それに同情している。もの作りを極めれば極めるほど、素手からは遠くなっていくことに。

本書はしかし、「だからどうしろ」という本ではない。それが書けるのだとしたらその時こそ「工作の滅亡」だろう。それはどういうことかといえば、何かを作る過程を全て「書き出し」、工作機械をプログラムできるということなのだから。本書は言葉では書きようがないことを、言葉で表した一冊である。実にもどかしい。しかしそのもどかしさこそ、本書の手応えであり魅力なのだ。

本書には、文字通り印象的な -- impressive -- 手で押した-- 言葉が実に多く登場するが、一カ所だけ紹介させていただくことにしよう。あえて前後の文脈は割愛する。それは各自自らの手で確認していただきたいので。

P. 147
好奇心というのは、教育すればするほど失われるものといえる。だから、もし好奇心を本気で育てたいなら、教育をやめるべきだ。教育という行為自体が「アンチ好奇心」的な操作なのである。

私が非登校になった理由はそこだったのか。

おかげで私の好奇心は、不惑を過ぎた今もまだ育っていることを毎日実感している。

ただ一つだけ非登校で残念なことがあった。学校にあった旋盤が使えなくなったことだ。私の中学校の思い出というのは、それくらいしかない。クラスメイトの名前も顔も覚えていないが、旋盤があったことだけははっきりと覚えている。今でもあの旋盤はあるのだろうか…

Dan the Maker