筑摩書房松本様より献本御礼。

を読んだ人であれば、我が意を得たりと気が晴れるのではないだろうか。

しかし、それはぬか喜びに過ぎない。著者が巻末でこう述べたとおり、本書に答えはない。

P. 176
せめて、「お客様」社会に辟易しているひとは、「お客様」意識からどう脱却するのか、いろいろ試行錯誤してみてください。私が「お客様」意識からの脱却法を伝えようとしたら、それはおそらくマニュアルになってしまいます。

そして著者には申し訳ないけれど、たとえ「お客様」意識から読者が脱却できたとしても、「お客様」社会、あるいは顧客原理主義はもはや止められないからだ。

本書「「お客様」がやかましい」は、顧客重視の果てに社会がどうなったかを冷静に考察し、それがなにをもたらしてきたかを、ちくまプリマー新書にふさわしく、まだ「お客様」に頭を下げる必要がない中学生にもわかるよう易しく、そして「お客様」に疲れている大人をいたわるよう優しく解説した一冊。

目次
第1章 「お客様」社会先進国ニッポン
消費者社会としての日本社会
「お客様」社会としての日本社会
広がる「お客様」化
「お客様」になれば認めてもらえる
第2章 「お客様」による暴力はなぜ増える?
「お客様」社会は問題か?
「お客様」は「荒ぶる神様」
「お客様」が暴力的になる理由
第3章 客を客とも思わない店員―労働者から誇りを奪う「お客様」社会
「お客様」社会の逆説
スーパーと職人
スーパー、職人、マニュアル
失礼なバイト店員が増えた理由
失礼な職人的店員が増えた理由
第4章 教育の「お客様」社会化は、学ぶひとを不幸にする
学校教育の「お客様」社会化
「お客様」社会化した大学の現状
「お客様」社会化した大学の問題点
学校教育の「お客様」社会化マッチポンプ
第5章 「お客様」意識からの脱却
不満排除システム
不満排除の逆説的帰結
せいぜい「お客さん」
あとがき

表紙を飾るのは、ご存知三波春夫のイラスト。しかしあの「お客様は神様です」という、おそらく日本一有名な台詞の文脈は、現在のそれとは多いに異なっていたらしい。

「お客様は神様です」について
三波春夫にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。客席にいらっしゃるお客様とステージに立つ演者、という形の中から生まれたフレーズです。三波が言う「お客様」は、商店や飲食店などのお客様のことではないのです。
しかし、このフレーズが真意と離れて使われる時には、例えば買い物客が「お金を払う客なんだからもっと丁寧にしなさいよ。お客様は神様でしょ?」と、いう感じ。店員さんは「お客様は神様です、って言うからって、お客は何をしたって良いっていうんですか?」という具合。
俗に言う“クレーマー”の恰好の言いわけ、言い分になってしまっているようです。元の意味とかけ離れた使われ方ですから私が言う段ではありませんけれど、大体クレーマーたるや、「お客様」と「様」を付けて呼んで貰えるような人たちではないと思います。サービスする側を 見下すような人たちには、様は付かないでしょう。

にも関わらず、なぜ『お客様」は荒ぶる神となり、年々多くの供物を「人々」に要求するようになったのか。

供物 = グッズもサービスも、年々よくなってきたからだ。政府の保護でもない限りは。

はじめは「あればありがたい」ものごとが、日を追うごとにあって当たり前のものとなっていく。そして全員に行き渡ってからは、いきつくところまで安くなっていく。神としての我々は、そのことにすっかり慣れっこになってしまった。ソ連の崩壊もバブルの崩壊も世界貿易センタービルの崩壊も目の当たりにしてきた私も、そうでなかった年をまるで知らない。「失われた10年」とか「失われた20年」とかいうけれど、購買力で見たら前の年より下がったという経験がまるでない。特に私が欲しがる「デジモノ」はそうで、ハードウェアもソフトウェアもハイパーデフレとしか呼びようがない「改良の嵐」のさなかにずっとあった。

神としての我々は、サービスの低下というものを知らない。銀行ぐらいだろうか。これだけは目に見えて改悪している。そしてそれが政府の保護下にあるのはご存知のとおり。

そして神をまつろうものとしての我々は、年々神をなだめるのに必要な供物が増えていくことに疲れ果てている。もはや神と人との間に産まれしヘラクレスでもなければ、神の要求に答えられないのではないのかというぐらいに。

昔なら、亀仙人でも道場が開けた。今では神龍を作った神ですら負けてしまい、スーパーサイヤ人でもなければ神は「あやされて」くれない。

過剰接客禁止法、という法律を政府が作ったらどうだろうか。その法律は、雇用主による従業員への表情の強制を禁止する。「客が来たら笑え」という命令を禁じるのだ。働いているときには、別の人格になりきるのではなくて、普段の自分と連続的に振舞うことを許されるだけで、確実にストレスは減る。

その気持ちは、痛いほどわかる、というより、ハイパーデフレをなんとか生き延びて来た私でさえ、この状況は痛い。おそらくその気持ちはむしろ「マッチョ」な「強者」ほど顕著で、そのことは「ファーストクラスに乗る人のシンプルな習慣」からも伺い知ることができる。こちらも献本。改めて御礼。ファーストクラスに乗る人は、添乗員いじめはまずしないのだそうだ。それがひどいのはその一つ下のビジネスクラスなのだとか。

話を元に戻そう。それをやったらどうなるか。

神は文字通り「ひとでなし」を愛でるようになるだけだろう。

ニュースキャスターは初音ミクでいい。本はAmazonで買えばいい。コンビニは自動販売機にしてしまえばいい…むしろ「ヘラクレス」たちはそれを奇禍に、一挙に無人化を進めるのではないか。

そして挨拶さえおっくうになったわれわれは、それを受け入れてしまうのではないか。

本書は「ゴーダ哲学堂」を引用し、「お客様社会」は「不満排除システム」であると喝破する。そう。システム。その構成要素は、何もヒトである必要はない。いや、不満を持たずにいられないヒトは構成要素としては不安定要因ですらある。神はミクにまかせるべきではないのか?

この大きな流れ=メガトレンドは、資本至上主義よりも強い。そのことは「フリー」を読めばよくわかる。ゼロ円になっても止まらない。神が求めるのはより上質のbitsであってatomではないのだから。

私が「働かざるもの、飢えるべからず。」と言った理由がここにある。もはや客としての我々は、我々が生身で接待するにはあまりに尊大すぎるのだ。そしてそれを無理に止めようとすれば、数少ない、しかし無視できない数の「ヘラクレス」たちは居場所を失ってしまう。神を接待したもののみ神の施しを受けられる今の方針では、戦闘力5の人も53万の人も不幸ではないか。

神に挑める人は、切磋琢磨の上、多いに挑んで欲しい。

しかしそれを全員に求めるのは間違っている。「元気を分けて」もらえば十分ではないか。

Dan the Survivor