他の二つはとにかく、真ん中の一つが破綻している。

金融日記:笑いごとではなくなってしまった都市伝説みっつを論破する

都市伝説2: 派遣労働は派遣会社が派遣社員の給料をピンハネして搾取するので禁止すべき

ひとことでいえば、ピンハネで搾取されていると思うなら辞めればいいじゃんということです。

先進国はどこでも職業選択の自由が保障されているので、何人たりとも強制労働させられることはありません。

この論法のどこが詭弁かというと、本来は定量的な「自由」というものを、あたかも定性的なものであるかのごとく語っていること。私自身の実例を上げると、実家が全焼して大学を中退したての時の私と、404でぐぐっても 弾でぐぐってもトップに来る今の私とでは「自由」の量が違うのに、どちらも「平等に自由」と言っているようなもの。

私がフリーランスの技術翻訳を経て、フリーランスのネットワークエンジニアとなったのは、自由だったからじゃない。不自由だったからだ。実家の再建はフルタイムで雇用されていたら無理。だから仕方なくフリーランスの技術翻訳をやっていた。そうしているうちにインターネットの時代がやってきたので、たまたまTCP/IPを知っていた私はISPの立ち上げを手伝っているうちにそちらが本業になり、そうしているうちに堀江さんの目に留まり、あとは小飼弾 - Wikipedia他に書いてあるとおり。

派遣社員と何が違っていたかと言えば、自由ではなくて運だとしかいいようがない。10年遅ければ私もピンハネを知りつつも甘んじてそれを受け入れるか、ニートは食わねど高楊枝を決め込むかどちらかになっていたのは想像に難しくない。

いや、運だけではない。私は英語という日本人には比較的習得困難な技能と、TCP/IPという当時は稀少な技術を身につけていたのだ。前者はとにかく後者はそれを身につけた当時現金化可能な技術だとは全く考えていなかった。日本では当時パソコン通信全盛時代。Webすらなかった時代であったが、大学のダイアルインは無料、電話代もlocal callは無料ということでモデムをつなぎっぱなしにしていた私は、ロマ・プリータ地震の時もそうしていて、電話がつながらないと母に怒られたものだ。電話代を気にしながらパソコン通信していた日本の人々に比べて、なんと恵まれた環境にいたのだろう。

資本主義社会において、金に不自由であることは、即、副詞抜きの不自由につながる。もちろん私の例のように、無一文になっても即現金化できる技能があったり、「内定取消」--この場を借りて献本御礼--の著者のように母校や実家が支えになったりする場合があるので、「金に不自由=不自由」とはならない。が、湯浅誠が言うところの「溜め」がなければ、職業選択の自由などなきに等しいのは国も時代も問わない。

そして低額所得者向けの融資ほど利息が高いのに似て、溜めが少ない人向けの労働ほどピンハネ率は高い。貧すれば鈍するというよりも、貧すれば鈍されるのだ。

かといって、私は派遣労働そのものが悪いとは思わないし、ピンハネという行為そのものが悪いとも思っていない。「利益」というのはピンハネの言い換えにすぎないのだから。問題はピンハネ率が「不自由」な人ほど高く、にも関わらずそれが不自由な人には知られていないということにある。派遣労働がどうあるべきかは「派遣のリアル」で門倉貴史が書いているのでここで繰り返すつもりはない。「襟も残業手当も真っ白」で書いた通り、いっそ「労働組合LLP」を作って、社員はすべてそこから派遣する、すなわち「正規雇用」そのものを廃止した方がいいのではないかとすら考えている。

さらに「働かざるもの、飢えるべからず。」をはじめあちこちで唱えているベーシック・インカムがあればなおのことよい。

しかしそれは委細であって本質ではない。本当に重要なのは、自由とは定性的、つまり「自由か不自由か」という定性的なものではなく、「どれくらい自由か」という定量的なものであることだ。これを知らないとあなたは自発的に自由を放棄したと見なされてしまう。

自由というのは、"Take it or leave it"の二択ではないのだから。

Dan the Lucky and Free