あなたを慰めるつもりは、微塵もない。

被害者はいないという大きな男の人たちへ - はてこはだいたい家にいる被害者はいないという大きな男の人たちへ - はてこはだいたい家にいる
どうかお願い、聞こえるところでそんな話をしないでね。

「なぜ嫌がるんだ、芝居だよ? 誰も君を傷つける気はないさ」

っていうのはね、あんまり慰めにならないよ。本当に襲われたたくさんの人とそっくりの場面があちこちに織り込まれたお芝居を、舌なめずりして見てるのを、安心して見ているのは難しいの。

なぜなら、あなたには慰められる資格がないからだ。

私にもない。読者にもない。そんな資格をもった人はおそらくどこにもいない。

我々は暴力の被害者ことを恐れるのと同時に、暴力の加害者となることが大好きなのだ。

被害者はいないという大きな男の人たちへ - はてこはだいたい家にいる
私は4歳まで疑うことを知らないいたいけなお嬢さんだったけれど、ある時から年子の弟とつかみ合いの喧嘩をするようになり、そのたび必ず負かしてきた。

あなたも、その例外ではない。

私の二人の娘たちもその例外ではない。彼女たちも時には喧嘩をする。しかしその結果は常に三年早く生まれた長女の勝ちとは限らない。「戦闘」では手喧嘩でも口喧嘩でも長女が常に勝つが、「戦争」ではそうならないのだ。

親が、いるからだ。

いくら長女が三年分強いといっても、長女の四倍も生きてきた親にはかなわない。そのことを次女はずいぶんと早く学んだ。実に上手に親を利用する。この親の利用法という点においては、次女の方が長女より長けている。結果、「戦争」の成績では長女の方が分が悪いとさえ言える。

こういった現象は、小は家庭から大は国家まで見られる。のび太とスネ夫が喧嘩してどちらが強いかはわからないが、ジャイアンを抱き込めば勝負は明らかだ。日本が米軍を手放さない理由も、こう言えばまだ小学生の娘たちにもわかる。

「タイマン」というのは、喧嘩のありようの一部にすぎず、一部にすぎないのは愚者の喧嘩だからだ。うちの次女にもわかることが、それよりも年長であろう読者諸君にわからぬわけはない。

だとしたらなぜ気づかないのか。

法というのも、暴力なのだ、と。

そして暴力において、性的な暴力は氷山の一角にすぎない。

Togetter - まとめ「青少年健全育成条例関連、飛さんの意見」
いいたかったのはこういうこと。(1)児童にポルノを見せるのは、法的にも立派な児童虐待。たとえ児童がそれを望んでも。(2)親がスクリーンするとはかぎらない。むしろ積極的になる危険もある。(3)児童が容易にポルノにアクセスできない社会環境を作るのが大人の勤め。(4)そのかぎりにおいて、一定の権限を行政に付与するかどうかは市民が民主的手続きによって決めること。(5)表現の自由を侵害するセンシティブな部分は、ガイドラインの合意形成過程をオープンにするなどして、規制を受ける側の意見を十分に反映すること。(6)ガイドラインとその運用は常に監視されるべき。(7)表現者側も、自分が児童虐待に加担する危険があることを認識し、緊張感と自律精神を持って、制作と営業に励むこと。以上。俺なんかおかしなこと言ってる?

その上で

二次元だろうが三次元だろうが四次元だろうが、ポルノはポルノ。

とあるが、一次元が抜けているのは発言者が作家だからだろうか。それはとにかく、私が児童だった頃に読んだ筒井康隆作品は、フィクションもノンフィクションもエロスとヴァイオレンスのオンパレードだった。そう。ノンフィクションも。子供にも性欲があることが普通であることを知ったのは同氏のエッセイを通してであった。同氏の兄弟が別の兄弟に欲情したことを告白したシーンは今でも鮮明に覚えている。「近親相オカマ」という言葉とともに。

先日、私は一家全員でアバターを見に行った。暴力だらけの作品であることは、トレイラーを見ただけでもわかる。米国でのRatingはPG-13ということであるが、小学生の娘たちが特に入場をとがめられることもなく、3Dメガネもにこやかに入口で渡された。暴力を見せることが立派な児童虐待ということであれば、私はまごうことなき児童虐待者ということになる。

私は私の親よりも、遥かに多くの暴力を作品を通して体験してきた。一方、父親の拳を毎日のように浴びていた私が、子供を殴ったことはただの一度としてない。私に暴力衝動がないからではない。心の中では父どころか母や妹すら何度も殺している。夢まで含めれば娘たちだってその犠牲者だ(私が殺される夢の方が遥かに多いが。たいてい食われる)。暴力衝動の強さをどう計るかはわからないが、仮にその方法があったとしたら私の暴力衝動は親たちをマグニチュードで1以上上回る自信がある。

その私がリアルの暴力に走らずに済んでいるのは、暴力衝動を心の中で昇華する術を学んだからであり、そしてその術を教えてくれたのは一次元二次元三次元四次元の数多の作品であった。親の薫陶しかなかったら、私も人一倍立派な暴漢となっていたことは全財産をかけてもいい。

まず認めようではないか。

我々は、三度の飯より暴力が好きなのだ、と。

その暴力的な力を法で押さえ込めると考えるのは、「空腹禁止」と法に書いたら腹が減らないと思い込むほど空虚な絵空事である。

我々の子供たちが学ぶべきなのは、外の暴力から目をそらす事ではない。

いかに内なる暴力を内に止めておくか、なのである。

Dan the Violent