早川書房井手様より献本御礼。
いけてる。「SF者」でなくても楽しめる。本blogの読者のように、SF読みである以前にネットワーカーである人であればほぼ確実に楽しめる。「アッチェレランド」のハードコアぶりについてけなかった人も、本書なら大丈夫。
本職のUnixシスアドが書いているだけあって、登場する用語がかっちりしているところもよい。「ジュラシック・パーク」(映画の方)の「Unixなら分かるわ!」にorzとなって、「もうぜったい電脳がらみのフィクションなんて読むもんか!」という人にも、本書は自信をもっておすすめできる。
とはいえ、本書に限らず「電子知能」が登場するSFを通して私が抱く不満を、今回も抱く事になった。本entryの後半は、その話になるはずだ。
本書「星の舞台からいている」は、こんなお話。
背表紙より香南は、顧客の死後にweb上の死亡告知やサービスの解約処理を代行するHCC社勤務の25歳。伝説の創業メンバー・野上の死後処理を任された彼女は、謎のメールに導かれ彼の人生を追う。一方、香南のネット上の代理人(エージェント)である〈カナ〉も、野上の代理人(エージェント)である〈ボク〉と出会う。香南とカナの進む先には、野上の遺した世界を揺るがす秘密が……恋に仕事にひたむきな女子がwebとこの惑星(ほし)の未来を拓く。愛と勇気のシステムエンジニアSF!
システムエンジニアSFかあ。Computer Scienceという言葉がすでにあるのでコンピューター・サイエンス・フィクションの方がしっくりしそう、ではあるけれど本書はどちらかというとサイエンスよりエンジニアリングがキモなので System Engineering Fiction の方がいい。いっそ System Engineering FiXion = SEX、いや失礼。
野上は伝説の創業メンバーとはいえ、死去時点では会員番号1の通常顧客。通常業務として野上の死後処理を進めようとした主人公の元に、一通のMailが届く。Subject: I am alive
と。その一方、野上のエージェントプログラムである「ボク」は、マスターの死を受けて消去される運命にあった…
というのが本書の出だし。というわけで本作は基本的に死んだ筈の野上を香南と「ボク」が追いかけるという物語なのだけど、面白いのは香南は三人称で書かれるのに対し、「ボク」は一人称で書かれている事。このボクの独白を通して読者は著者の「電子知性」論に触れることになる。
セマンティクスを生み出すのは、コミュニケーションだ
というボクの台詞は、実に魅力的だ。AI批判では必ず登場するサールの「中国人の部屋」問題に対する「ボク」--を通して語られる著者の解答が、これだ。ここは大いに満足した。
しかし、機能としてはbotにすぎない「ボク」が、のっけから「ボク」であることに、私は不満を覚えた。「ボク」はどこで自我を得たのであろうか、と。これこそが、SFの「電子知能」に対する私の最大の不満なのだ。
あえて人工知能ではなく「電子知能」と書いたのは、「電子化された天然知能」というものもSFには存在するからだ。「ディアスポラ」の主人公もこれに近い。あくまでヒトが産まれる環境を電子的に作り上げた上に、そうして産まれた「ヒト」に人間としての経験を積ませることで自我を得る。同作では最初の一章をまるまる使ってこの課程を描写していたが、もっと手っ取り早く天然人をスキャンしてしまうという方法もある。「肉滅」の避難民のように。「神は沈黙せず」ではさらに一歩進んで、この「リアル世界」も実はシミュレーションに過ぎなかったというところから話が始まる。
この方法に無理がないのは、すでに我々が自我を実感しているから。要するに読者自身が自我の存在の証明書(certificate)であるわけだ。「リアル」だろうが「ヴァーチャル」だろうが、我思う故に我ありではないか。
しかし自我を直接コピーするのでもなく、また「天然人」が育つ環境をエミュレートするのでもなく、電子空間(cyberspace)の中で自我を「創発」させるのは難しい。「アッチェレランド」に対する私の最大の不満はロブスターだった。この点に関してはStrossご本人に直接たずねてみたのだが、「SPAMボットの進化の果てに新ギュラリティが来るかも」という斜め上の解答をもらってしまった(笑)。SF用語のシンギュラリティ(singularity)というのは、環境が知能を自発的(spontaneous)に発生する臨界点という意味もあるようなのだが、本作には
ボクらはまだシンギュラリティに達していない
という驚愕の台詞も登場する。「ボク」はいつどうやって「ボク」を得たのだ?
この点に関して秀逸なのが、「声の網」と「帝王の殻」。どちらに登場する電子知能も自我を持っているかどうかは定かではないが自己防衛本能は持っている。特に後者に登場するPABは、本作の「エージェント」が「筐体」を持っているようなものだ。PABに自己防衛本能を与えられている理由が、所有者のプライバシーを守るためというのも実に「自然」だ。
しかし、SPAMフィルターの延長といってもよい「エージェント」が自己防衛本能、すなわち外部的に書き換えられたり消去されたりすることに対して抵抗する--ようユーザーがデザインする(させる)理由って一体なんだろう?ましてや本作において、「ボク」は自分が自己防衛本能--消されたくない!--という意思を持っていることに驚愕しているのである。
驚愕だけではなく、「ボク」は「光栄に思う」こともできたりと、フルセットの感情を持っている。しかもどうやら♂らしい。カナが♀であるように。
しかし本作は「ボクがボクであるために」問題に深入りしていない。「ボク」が意思と感情を持ち、その意思と感情がどのように(揺れ)動くのかは綿密かつ「既存のネットワークエンジニアリング用語」で描写されているのに関わらず。
そう。本作は実はラブストーリーなのだ。重要なのは愛の行き先=transitであって、なぜ愛が存在するかではない。ラブストーリーにおいてそれを聞くのは野暮というものである。ラブストーリーをRFCのように--少なくとも「ボク」に関しては--書き上げたというだけで本作はSFファンもネットワークエンジニアも一目置かざるをえない。ましてや私はその両方である。本作を愛さずにいられるか。
Dan the Wetware
http://blogs.yahoo.co.jp/birst_head/59532294.html