早川書房富川様より献本御礼。

[初出 2010.05.22;
 追記 2010.08.12]

これは美味い。そして苦い。この苦みは、この美味さと不可分のものだ。

その苦さゆえ、ほとんどの人は敬遠するのかと思いきや、これが世界一有名な大学で一番人気の講義を元に書かれた本だというのだから、世の中捨てたもんじゃないではないか。

本書「これからの「正義」の話をしよう」は、Harvardで最も人気のある講義"Justice: What's the Right Thing to Do?" を下敷きに書き下ろされた正義本。正義本といっても正義の本ではなく、正義についての本である。邦訳は正義を「」でくくることでそれを区別しているが私としてはくくらずに「これから正義について話そう」、あるいは直訳で「正義:正しい行いってなんだろう?」の方がよかったと思う。

目次
第1章 正しいことをする
第2章 最大幸福原理──功利主義
第3章 私は私のものか?──リバタリアニズム(自由至上主義)
第4 章 雇われ助っ人──市場と倫理
第5章 重要なのは動機──イマヌエル・カント
第6章 平等をめぐる議論――ジョン・ロールズ
第 7章 アファーマティブ・アクションをめぐる論争
第8章 誰が何に値するか?──アリストテレス
第9章 たがいに負うものは何か?――忠誠のジレンマ
第10章 正義と共通善
謝辞
原注

ご存知かもしれないが、著者の講義はあまりに人気があったため、一般公開されてボストンの公共放送局WGBHで放映された。もちろん全エピソードがYouTubeで視聴可能になっている。

著者は非常に平易な言葉でかつゆっくり話すので、英語の学習にも向いているかも知れない。どうしても避けられない専門用語に関してはスライドも出るのでそれほど困らないだろう。それでも困るという人は、NHKでも最近放送しているようなのでそちらをご覧になってもよいだろう。

とはいえ「ハーバード白熱教室」という番組名はどうかとも思う。ビバリーヒルズ高校白書の大学版かと勘違いしそうではないか。とはいえ、白熱というのは全く偽りがない。千人以上入りそうな講堂--というより劇場--に一杯の満員の聴講生たちのまなざしは確かに燃えている。

燃えているのは、およそ衒学とは無縁だからだろう。「動物化するポストモダン」とか言い出したら卵投げつけようかと思ったが、残念ながら(笑)そういう機会はなかった。著者は必ず「今、そこにある問題」から話をはじめる。第一回目の題目は、今ではすっかり有名なトロッコ問題。「正しい」はさておき、何が問題かは子供でもわかる。講義で、そして本書であつかう問題は、こうした誰でも直面する、現代人であれば避けて通れない問題ばかりである。

それでも講義というのは講師はもとより受講者にとってもかなり手間と暇がかかるもので、情熱が強い分情報は少なくなる。講義を聴講するに留まらず本書をひもとくべき理由がそこにある。たとえばトロッコ問題一つとっても、講義ではトロッコ問題そのものしか事例を取り上げる時間がなかったのに対し、本書ではそれが実際におきた例--アフガニスタンでタリバンを追っていた特殊部隊員が途中で出会った羊飼いをどうしたか--も取り上げられている。ペースを自在に配分できるのも強みだ。私は一回の講義分の時間で本書を読了できた。私としてはずいぶんゆっくり読んだのだが、それでも全講義を等速で視聴するよりは早い。

で、本書の主題である「正義」について。

私が思い出したのは、「「おろかもの」の正義論」の以下の下りだった。

「おろかもの」の正義論」カバー
「正しさを定める規範とその原理は、誰にもわかるように語られなければならない。ここが自然法則との大きく違うところだ。引力の法則を理解していようがいまいが、ビルの窓から飛び出せば下に落ちる。だが、「正しさ」は人に理解されてはじめて「正しさ」としての力をもつ。

それを理解そして納得させるのが著者の講義、そして本書の役割であるのだが、著者は第一回目の講義で受講者にこう覚悟を求めている。

The aim of this course is to awaken the restlessness of reason and to see where it might lead.
本講義が目指すのは、理の不安を目覚めさせ、その行く末を見届けることです。

The restlessness of reason. 理(ことわり)の不安。

そう。正しさについて考え、そしてそれを元に行動することには、常に不安がつきまとうのである。そして一度そうする癖がついたら、そこから抜け出すには「蒸発」でもするしかない。"Once known, it can never be unknown or unthought"。それは無知という無垢との永遠の別れなのである。著者は講義の第一回目をそう締めくくり、そして最終講義もそうしめくくっている。

理の不安。

これを叩き込まないと、本書の結論を読者は多いに誤解することとなるだろう。

P. 345
道徳に関与する政治は、回避の政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもある。

この文言だけ見れば、非実在青年を法で積極的に保護したりするのは正しいことのように見えるが、著者の真意は真逆である。政治が道徳に関与するということは、政治もまた理の不安に耐えなければならないことを意味するのだから。著者がいる米国の有権者とは、日本以上に政治に理の不安の解消を求める傾向が強い人々でもある。その結果が庶民には賄えぬまで高騰した医療とであり、二つの戦争なのではないか。著者の台詞を借りれば、 categorically wrong ということである。

とはいえ正直、「道徳に関与する政治」というものの姿明確には思い描けない自分がいる。考えが足りないのか、それとも理の不安に対する忍耐が足りないのか。一つわかるのは、道徳に関与できる政治は、理の不安に耐えられる人々でないとなし得ないということだ。著者の講義と本書はまさにそのためにある。重要なのは著者--そして読者--がコミュニタリアン(共同体主義者)なのかユーティリタリアン(功利主義者)かどうかではない。その点で宮台真司の帯はミスリーディング過ぎかつ衒学的すぎる。

あなたは「正しさ」について、共に考え行う不安に耐える覚悟があるのか?

それこそが、著者のつきつけたRed Pillなのだ。

Dan the Restless Thinker