ついに読んでしまった。

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天地明察(文庫版上下)
冲方丁
[原著]
初出2010.06.07; 2012.05.17 文庫化に伴い更新

「面白くない訳がない」という予感は下馬評を読むまでもなく、タイトルと著者を見ただけであったので、時期を選んで読みたかったのだ。積読が出来ない私は、だから当時あえて注文しなかった。しかも物語に関しては隙間読みも不得手なので、散髪もままならない日々が続く中、本作は後回しにしてきたのだ。

で、本日散髪に行き、帰宅した私を迎えてくれたのが本書だった。

なんとすがすがしい週末だろう。

週末。本作の時代にはなかった週末。

最初にお断り。本entryには主にWikipediaへのリンクが含まれるが、クリックするのは本作読了後にすること。どうしてもネタバレになってしまうので。

本作「天地明察」は、改暦の物語。

それだけの話といえば、それだけの話である。江戸時代小説なのに、血は一滴も流れない。血は流れなくとも、流れるものがある。それが、時。この時を案配するのが暦であるのだが、当時使われていた宣明暦も採用から800年。その誤差も看過できぬほど大きくなっていた。このいきさつはグレゴリオ暦の導入にも通じるが、純粋な太陽暦であるユリウス暦やグレゴリオ暦と違って、当時の暦は「単なる日割り」ではなかったこと。そこには月の満ち欠けや月食や日食も反映されていなければならなかった。今やこれらのイベントは暦とは別にニュースなどで提供されるが、当時はそれも暦の一部。朔日は単なる一日ではない。絶対に新月でなければならないのだ。月の満ち欠け一つとっても、電気などない時代には今よりも遥かに重要な情報だった。

そう。国家の根底をゆるがしかねないほどの。

この大役を担ったのが、本書の主人公渋川春海。この人を主人公にすえたことで、本作はこれまでなかった時代小説となった。この人物選択の絶妙さは、「ヒストリエ」のエウメネスにも匹敵する。どうやら時代劇の傑作に至る最短距離は、「誰でも知っている重要人物を知っている、誰も知らなかった人物」を見つけられるかにかかっているようだ。司馬遼太郎にとっての坂本龍馬のように。

春海を主人公に据えることで、武の時代から文の時代への移行を存分に描くことが可能になった。そう、江戸時代は天下太平の時代。「平和ボケ」という自嘲すらある超平和な現代日本にあって、この時代はむしろ血なまぐさいドラマの舞台とばかり描かれるし、実際人の命の値段は遥かに安いものではあったけど、しかしその前の時代と比較したら遥かに平和だったのだ。その平和の確立に尽力したのが、保科正之。もしこの人がいなかったら、江戸時代はもっと室町時代っぽくなっていたはずだ。

改暦は、その正之にとって武の時代に幕を引く最後の仕上げともいえる事業だったのだろうか。

この血が流れないドラマにあって、最も血の気が多かったのが水戸光国、後の光圀だったというのも面白い。はっきりいって助さんと角さんと矢七を足して三で割るどころか三をかけたぐらいの暴れん坊副将軍である。

そして関孝和。ニュートンとライプニッツに先駆けて微積分を見つけた--とも称される--、数学の天才。本書は改暦への苦難を縦糸に、そして関に体現される数学への憧憬を横軸に織られた、一大算術ドラマなのである。

いや、もう一つ忘れてはならない。実はこの織物は三次元織り。もう一つ主人公の二人の嫁との愛という軸がある。

驚愕すべきなのは、本書に登場する人物と日時が全て本当にあったことだということ。主人公の嫁たちについてははさすがに調べられなかったのだが、主人公を含めた主な登場人物がいつ何をしたということに関して、本書はノンフィクションなのだ。そう。主人公がやってしまった一世一代の失敗まで含めて。およそエンジニアであれば、叫ばずにいられない大失敗である。

時代小説の難しいのは、こうした設定を「発明」できないことにある。第二次世界大戦で日本が負けなかったというのは時代小説ではなくもはや架空時代小説であって、別の宇宙でのお話である。著者はそれまで設定を自在に発明できる、ライトノベルやSFで活躍してきた。その著者が「ずっと書きたかったが、今まで力量が足りなかった」といっているのは、その制約の厳しさ故だろう。

著者冲方丁にとっての本作は、主人公春海にとっての、授時暦を超えた貞享暦であるのかも知れない。

Dan the Witness of the History

2012.05.17 追記: 待望の文庫化。文庫を出版社より献本御礼。5月21日の金環食の前に読了しておくことをお勧めします。貞享暦ではこの金環食はどうなっているのかな…