青土社渡辺様より献本御礼。
かつて読んだ数学の一般書の中で、もっとも深く感銘を受けた一冊。
ティーンエイジャーの頃に出会っておきたかった。
思い出したのは、以下の一節。
「フラジャイル」(松岡正剛)カバーよりなぜ、弱さは強さより深いのか?
読者は本書を手にしてこう問わざるを得ないだろう。
なぜ、不可能は可能より深いのか?
本書「不可能を証明する」は、数学がいかに不可能の証明を通して数学自身を発展させてきたかを実に簡潔に、しかし簡潔すぎないように、
Albert Einstein - WikiquoteEverything should be made as simple as possible, but no simpler.
というようにまとめた一冊。
目次- はじめに
- 序章 不可能を証明するということ、あるいは背理法の誕生
- 第1章 1つの単位で世界が測り切れる
- ―無理数の発見と通約不可能性
- 第2章 すべての角は3等分できるか
- ―作図の不可能性
- 第3章 平行線は本当に1本しかないのか
- ―平行線公理の証明不可能性
- 第4章 球面は浮き袋に変形できるか
- ―トポロジーにおける不可能性
- 第5章 このパズルに解答はあるか
- ―組み合わせ問題の不可能性
- 第6章 5次方程式は解けるのか
- ―五次方程式の代数的解の不可能性
- 第7章 どんなときでも個数は数えられるか
- ―対角線論法と実数の数え上げ不可能性
- 第8章 正しいことはいつでも証明できるのか
- ―不完全性定理と証明の不可能性
- おわりに
章題を見れば、かつて数学にはまった者であれば必ず目にした問題ばかり。そうでない者でも第1章の無理数については中学で教わったはずである。驚くべきは、著者の要約力。第1章のように充分短い証明は全証明を、そうでないものは証明のツボをきちんと抑えて紹介している。これで200ページちょっとしかないとは。ハードカバーでなければなおよかった。それだけが本書に対する唯一の不満である。
しかし本というのは、ましてや数学本というのはページ数ではないのだというのがきちんと読めばいやでもわかる。その意味で同じ著者の手による「はじめての現代数学」より本書の難易度は高い。実際献本から書評まで時間がかかったのは、本書の「チェックポイント」を「歩き直した」ということもある。「はじめての現代数学」はツアーガイドなので眺めて興味を抱くだけでも目的を達成したと言えるのだが、本書は「旅程表」(itinerary) なので、実際に旅をせずにはいられないのだ。
それにしても、不可能というのはなんと深いのだろう。
数学における不可能とは、単に「出来ません」ということではない。特に無限が絡む場合はそうだ。序章に背理法が出てくるように、本書で扱う不可能はそもそも証明自体が「全部試してみる」という方法が不可能になっている。その代わり、「出来ると仮定してやってみると、出来てはならぬものが出来てしまった」という方法を取るのである。これが、背理法。
だからこそ、不可能は単なる不可能に終わらず、新たな可能性の出発点ともなる。「自然数は神が造り賜うた。あとの数は人工物」といったのはクロネッカーだが、「たかが」割り算さえ、分数という新たな数を生み出さずにはいられない。そして分数は実数を産み、実数は複素数を産み…しかし複素数以上の数を持ち出さなくとも代数方程式の解は複素数の中に必ずあることをガウスが証明した。
しかし解があることと解を求めることは違う。四則演算とベキ場根だけで五次以上の方程式は解けないことをアーベルとガロアが発見した。それも単に発見したのではなく、その過程で群論という新たな数学が生まれた。
誤解してはならないのは、数学における「不可能」というのは、条件を厳密に限定した上での「不可能」だということだ。だからこそその条件を変更したり拡張することでその不可能が可能になり、思いもよらなかった可能性が新たに見えてくる。たとえば定木とコンパスだけでは出来ない角の三等分も、折り紙を使えば可能であることが知られているし、五次以上の方程式も、近似値であればいくらでも出せるのだ。今やこんなにお手軽に。
本書を締めくくりは、不完全性定理。これぞ締めくくりにふさわしい。なにしろこれは問題を証明するという行為そのものの不可能性の証明なのだから。本書が頼もしいのは、この定理もまた、「条件を厳密に限定した上での」、すなわち形式的な「不可能」であることをしっかり思い出させてくれること。
P. 210しかし、これがあくまでも形式の限界であって数学の限界ではないということは十分に注意しておこう。前に述べた通り、ヒルベルトによる形式主義は現代数学を貫く最大最強の柱になった。数学という営みはその形式性によって、逆説的に、あらゆる学問の中でももっとも自由な想像力を獲得したといってもよい。それでもなお、数学も人の営みである。数学を形式的に矛盾から守る事はできなかった。しかし、そこにこそ数学が人の営みであることの意味があるのだと思う。
やっと探し求めていたCtrl-Cを見つけた思いだ。
不可能こそ、可能性の母なのだ。
数学ほどそれを雄弁に語るものはなさそうだ。
Dan the Incomplete Blogger
ソシュールとかクワインとかチョムスキーとか、言語哲学には関心がありませんか。案外、こっちのほうから新しい科学の芽が吹きそうに思えます。
わたしは、まだ、カント以前をうろついているようなものです。これから「判断力批判」だから。