というわけで、解答編。

404 Blog Not Found:Math - 比較に数値は必要か?
最初の質問に戻って値付けが必要なのはいつどんなときだろうか?
GkEc's Something: 価格はなぜ必要か
価格が必要なのは、資源には限りがあるからだ。

正解より豊穣なる不正解。

確かに資源の有限性は、価格が生じる必要条件の一つではある。

しかしそれが充分条件ではないことは、何かを手に入れる手段に「買う」だけではなく「奪う」があることからもわかる。肉が欲しいときに、我々は鶏や豚や牛に代価を支払うことはない。ただ屠ってばらすだけだ。

しかし、乳や卵であればどうだろう。我々は飼料をその「代価」として支払っていると言えないか?

肉と乳や卵の違いって何だろうか?

「相手」が「取引後」も存続することである。

これを、何と呼べばいいか。共存共栄でも私有財産の尊重でもなんでもいいのだけど、私は「平和」と読んでいる。

平和。これが価格を安定的に生じさせる第一の要因。

それでは平和であれば価格は安定的に存在するかといえば、それも違う。

自分で必要なものを全て用意できるのであれば、価格どころか取引そのものが不要だからだ。この場合、いちいち自分の持ち物がいくらするのか気にかける必要は全くない。相手が持っていて自分が持っていないものを、相手から奪う事なく手に入れたくなって、はじめて取引が生じる。

交換。これが価格が生じる第二の要因。

しかしこれでもまだ価格は必要とはならない。すくなくともわらしべ長者には必要なかった。

なぜわらしべ長者には必要なかったのだろうか?

全交換していたからだ。持ち物をすべて差し出していいのであれば、不等号さえいらない。等号さえあれば取引可能なのだ。

しかし実際のところ、わらしべ長者のようなオールオアナッシングな取引はなかなか成立しない。たとえ藁が豪邸に化けたとしても、それだけで我々は生きて行けない。食い物もいれば着るものもいるのだ。結局のところ持ち物を別の何かに変える時には、売るときか買うときかどちらかで小分けをしなければならない。そう。分配しなければならないのだ。

分配。ここまできて、やっと価格というものが誕生する。

平和裏に交換と分配を繰り返して行けば、「それ」が牛何頭分に相当するのか、あるいは米何俵分に相当するのかがわかる。わかれば分配しにくそうなものも分配できるようになる。牛一頭を「そのまま」分けるのは無理でも、米に変えてしまえば分けられる。

相手のものを、相手から奪わず、かつ自分の持ち物をすべて渡さずにして、手に入れる。

価格とは、その繰り返しの結果やっと生じるものなのだ。

ところで、英語に priceless という言葉がある。日本でもマスターカードのCMですっかりおなじみになったあの言葉だ。ご存知のように、priceless の意味は「無価値」、 valueless ではない。それどころか「かけがえのない」という意味である。なぜそうなのかは、以上を見ればわかるだろう。譲渡不能だから分割不能だから、 price がない。よって priceless というわけなのだ。

価格がある世の中は、相手のものを、相手から奪わず、かつ自分の持ち物をすべて渡さずにして、手に入れることができる世の中だ。我々がお互いを尊重し、必要とする世の中だ。

そしてそれは一朝一夕でそうなったわけではない。今でこそ人類世界の過半で「なぜ価格が必要なのか」という問いにとっさに答えられないほど当たり前になったが、そうでない場所や場合がいくらでもあることは、ちょっと日本を離れればわかる。いや、日本においてさえ、「奪われる」という状況がゼロになったわけではないのだ。

そう考えると、 price がある世の中そのものが priceless に思えてこないだろうか。

Dan the Priceless - Like You