光文社新書編集部より献本御礼。
今まで読んだ著者の本の中では、最も腑に落ちた一冊だった。
逆説的ではあるが、それは私にとっては本書が「もはや役には立たない」ことを意味する。しかしそういう本ほど、人は読みふけってしまうものだ。なぜなのか、その答えも実は本書の中にある。
本書を真に必要としているのは、「名無し」のみなさん。名無しでいることがいかに危険なのか、本書ほど明瞭な言葉で書かれた本を私は知らない。
本書「街場のメディア論」は、メディア論というより、いやそれを超えたコミュニケーション論。
目次- まえがき
- 第一講 キャリアは他人のためのもの
- 第二講 マスメディアの嘘と演技
- 第三講 メディアと「クレイマー」
- 第四講 「正義」の暴走
- 第五講 メディアと「変えないほうがよいもの」
- 第六講 読者はどこにいるのか
- 第七講 贈与経済と読書
- 第八講 わけのわからない未来へ
- あとがき
著者がいやがるのを承知で、あえて本書の「利得」をビジネス書のオビよろしく書き出すとこんな感じになるだろうか。
- 就活、婚活がなぜ間違っているかがわかります
- マスメディアがなぜ年を追うごとに退屈になっているかがわかります
- クレイマーが最も傷つけるのは自分自身であるのはなぜかがわかります
- なぜ「正義」は「悪」より「悪い」のかがわかります
- 市場原理がなぜ教育を崩壊させるのかがわかります
- 電子書籍がなぜ「ヤバい」のか--いい意味にも悪い意味にも--がわかります
- 価格(price)と価値(value)の違いがわかります
- 明日は「分かる」ものではなく「活きる」ものだということがわかります
そう。本書はすこぶる実用的だ。
なぜか?
効用の耐えられない軽さこそが、本書のメインテーマだからだ。
一カ所引用しよう。
PP. 95-96ネット上に反乱する口汚い罵倒の言葉はその典型です。僕はそういう剣呑なところにはできるだけ足を踏み入れないようにしているのですけれど、たまに調べ物の関係で、不用意に入り込んでしまうことがあります。そこで行き交う言葉の特徴は、「個体識別できない」ということです。「名無し」というのが、2ちゃんねるでよく用いられる名乗りですけれど、これは「固有名詞を持たない人間」という意味です。ですから「名無し」が語っている言葉は「その発言に最終的に責任を取る個人がいない言葉」ということになる。
僕はそれはたいへん危険なことだと思います。攻撃的な言葉が標的にされた人を傷つけるからだけではなく、そのような言葉は、発信している人自身を損なうからです。だって、その人は「私が存在しなくなって誰も困らない」ということを堂々と公言しているからです。「私は個体識別できない人間であり、いくらでも代替者がいる人間である」というのは「だから、私は存在する必要のない人間である」という結論をコロラリーとして導いてしまう。
傍点は<strong>
タグで代用した。
そう、コロラリー(corollary)。それも対偶(contraposition)から導きだされる、帰結。これが、本書の基本的な構造である。
世の中は、こうしたコロラリーに満ちあふれている。「急がば回れ」、「損して得取れ」、「システムSが正常であるとき、Sは不完全である」…著者ほど背理的語りがうまい論者を現代日本のメディア上に見つけるのは難しい。著者の人気の源泉がそこにある。
私も一読者としてそこに魅せられると同時に、そこに「ムカつく」のは、著者が学者で私が職人だからかもしれない。
学者と職人の違い。それはコロラリーの後に"Sauve qui peut"と言い放てるかどうかにある。学者は言い放つ。職人は落としどころを積める。「処理能力を上げるとバッテリー寿命は短くなる」と書いて仕事が終わるのが学者、そこから仕事がはじまるのが職人といおうか。
しかし、100%学者もいなければ、100%職人もまたいない。本書は「父親」という職人としての著者が登場する。他著ほど「ムカつき」が少なかったのは、ですます調だからというわけではないだろう。
そんな「ですます」が切れる本書のこの箇所は、私が本書で一番好きな部分だ。
P. 182世界を意味で満たし、世界に新たな人間的価値を創出するのは、人間のみに備わった、このどのようなものを自分宛ての贈り物だと勘違いできる能力ではないのか。
違いますよ。内田先生。
その勘違いを実現してしまう能力、なのですよ。
誕生日を素直に祝いにくい年になった私ですが、これは実に素敵な贈り物でした。ありがとうございました。
Dan the Man of Contradition
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