今度こそ答えられるのか?

ローマ人の物語」の物語でも答えられなかった、あの質問を。

本書「絵で見る十字軍物語」は、「ローマ人の物語」とそれに続く「ローマ亡き後の地中海世界」を描いた著者による新シリーズ「十字軍物語」四部作の「序曲」。著者はここで自ら物語を紡ぐのではなく、Gustave Doré,のキャプションを書くという手法を選ぶ。

秀逸なやりかただと思う。

まず、版権が切れているので印税を折半する必要がない(笑)。本書の半分は絵なので著者名にもクレディットすべきだと感じはするが必要不可欠というわけではない。

次に、これはなんといっても「序曲」であり、著者はあくまでも塩野七生だということ。絵はあくまでも illustration であり、文脈も文も設定するのは著者である。実際Doréが主著者である本であれば、まさしく"Dore's Illustrations of the Crusades"という本が上梓されており、Google ブックスにも登録されている。それで確認する限り、絵の出現順序も本書と同書では別である。

そしてなにより、それがどれでもないDoréだということ(オヤジギャグ失礼)。著者はDoréを、挿絵画家としてのDoréを選んだ理由をこう述べている。

 またドレの挿し絵ばかり重視してミショーの文章を軽んじたように見えるとしたら、それも完全にちがう。学問的ではないという理由で今は研究たちから一顧もされないらしいが、二百年昔のキリスト教徒の筆になった十時軍史と考えるならば、驚くほどバランスの取れた叙述で一環している。啓蒙主義にフランス革命という、思想的にも社会上でも激動の時代に活きた人である為か、宗教や民族に対する既成概念にとらわれる度合いが少ない。要するに、相当な程度には客観的な叙述、言ってよい。これよりは二百年の後の現代に多い、イスラム教徒を刺激しないことばかりを配慮して書かれた十字軍の歴史書に比べれば、ミショーの執筆態度の方がよほど正直である。
 このミショーの作品を基にして、ドレは挿し絵を描いたのだ。もしミショーの立つ位置が十字軍べったりであったら、ドレも、十字軍にとって最大の敵であったサラディンを、ああも美しく描けなかったであろうし、十字軍きってのヒーローであったリチャード獅子王を、鋼鉄製のかぶとに隠れた顔でしか表現しない、ということもなかったにちがいない。

左がその、サラディンである。Wikipedia日本語のトップがこれであり、英語版でも使われている。

この十字軍ほど、日本人にとってわかりにくい世界史のエピソードは存在しないのではなかろうか。なにしろ「アブラハム教」2.0と3.0の戦いである。「OS」のバージョンが違うだけでなぜかくも愚かな戦いを、かくも長きにわたって続けて来たのか。

いや、続けて来ているのか。今の中東を見れば、十字軍終了宣言は出し難い。むしろ「Ver.1.0」まで加わって、戦いは混迷の度を深めているとすら言える。

そこでこの質問である。遠慮という言葉が辞書登録されていない私でさえ、少しするのが怖い。しかし、聞かずにいられない。

もしローマがエレサレムを完全に破壊したら。

カルタゴやコリントを破壊したように、破壊していたら。

世界は今、どうなっていたのだろう。

「ローマ人の物語」における「答え」は、「完全破壊」はローマ人の性分ではなかったということになっている。しかしローマ人にそれができたことは、カルタゴとコリントが証明している。「ユダヤ人」は世界中にいるが、「フェニキア人」や「カルタゴ人」はもういない。

「ケース・バイ・ケース」がモットーのローマ人がキリスト教を利用しようとして利用されてしまったというのも、「ローマ人の物語」の主張ではあったが、それはコンスタンティヌスという一個人に関しては間違ってなくとも、一読者として「ああそうですか」と納得することはとても出来ない。

なぜ中東の一カルトにすぎなかった「聖書教」が、世界の半分が信ずるところとなったのか。

今度の四部作は、それを明らかにするのだろうか。

期待せずにはいられない。

Dan the Agnostic

P.S. 一カ所だけ、挿し絵がない箇所がある。まさに無言の言ならぬ無画の画。