出版社より献本御礼。
私は自著をはじめ常々「我々はすでにお菓子の家に住んでいる」と言って来たが、本書の登場人物たちはそれを証明している。三内丸山のクリ林の縄文人のように、彼らは都会で生きている。
しかし、疑問が二つ残った。即物的な疑問が一つ。そしてそうでない疑問が一つ。
本書「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」は、「都市の幸」で暮らす人々の物語。前世紀であれば、彼らは「浮浪者」であり「乞食」と呼ばれていただろう。しかしそういった後ろめたさは本書の登場人物にはない。むしろ「自然本来」の人の姿を読者はそこに見いだすはずだ。
目次- 衣服と食事を確保する
- 寝床を確保し、パーティを組む
- 生業を手にする
- 巣づくり―準備編
- 巣づくり―実践編
- 都市を違った目で見る
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とうたったのは「方丈記」だが、その作者である鴨長明もまた家を建てず、京という河の水のように生きていた人だったということを本書は上手に紹介している。850年も前の都市がそれほど豊かであったのであれば、現代の都市の幸がどれほどのものか。
かつて家出少年だった私は、それを体で知っている。そしてその頃と比較してすら、現代の都市型狩猟採集生活はずっと豊かなのだ。私が家出少年だった頃、「基本建材」は新聞紙だった。それが段ボールになったというのは縄文が弥生になったのに匹敵する革命に感じられる。それどころか現代の都市型狩猟採集民は、発電機や太陽電池パネルで電気まで持っている。方丈記の時代であれば王侯貴族でも得られなかった電気まで。
しかし彼らの発電能力は、冷蔵庫を断続運転させるには十分でも空調までは得られない。これが即物的な疑問その一。彼らは夏--特にこの夏--をどう凌いでいるのか。空調服というものがあるが本書には未登場だった。段ボールがある今、夏こそ彼らの最大の敵に思えるのだが。
そして、もう一つの疑問。
彼らはどうやって意味を得ているのか。あるいは意味欲を逃れているのか。
本書を読んで私はすぐにこの「失踪日記」を読み返した。都市型狩猟採集生活の巧みさにおいて同作の主人公/著者は本書の登場人物たちにひけをとらない。しかし決定的に違うのが、「意味の意味」だ。同作に主人公は、意味に飢えたからこそこそ失踪し、意味に病んだからこそアルコール中毒で精神病院に措置入院となった。
自分は読者にとってどんな意味があるのか。
編集者にとってどんな意味があるのか。
家族にとってどんな意味があるのか。
それを見失ったから、意味から必死で逃げようとしたのである。
そう。意味。
多分それが、働くことの一番の意味なのではないか。
労働を必要としない君も、意味は必要としていることを、いみじくもこのタイトルが証明している。
いや、いいかえよう。
必要とされることを必要としているのだ。
大人どころか、子供まで。
子供どころか、おもちゃまで。
もし必要なのが食と安全であれば、食を必要としないおもちゃたちは、永遠におもちゃ箱の中で死蔵される方を尊んだのではないか。
「遊んでもらった方がいいに決まっている」。それを言うまでもなかったからこそ、この映画は問答無用で世界中で公開されたのだ。
本書の都市型狩猟採集民たちは、どうやって自らの意味に自ら疑問を持つ事から逃れているのだろうか?
生きて行けるのは、わかっている。
おもちゃ箱の中のおもちゃぐらいには。
しかしそれで意味なるものを得られるか。
あるいは与えられるか。
意味は、あるものではない。
意味がない、というのとは違う。
意味は、お互い与え合うことによってはじめて得られるものだ、という意味である。
働くというのは、「何か」を与えることで「意味を得る」という行為なのではないか。
物質的報酬、金銭的報酬は、その意味なるもののごく一部でしかない。
彼らはどうやってそれを得ているのか。あるいはそれを必要としなくなったのか。
それを知りたい。
Dan the Needed
いっぽう、インドのバラモンたちは、たくさんのマントラや陀羅尼を創作した。マントラや陀羅尼とすることで、言語から意味を捨象し、音声の配列の韻律にだけ呪術力を付与した。意味の桎梏から逃れたとき、言語は本来の呪術力を回復するとしたのがインドのバラモンたち。
意味の起源は、コミュニケーションにあると思われる。すなわち、他者のいないところ、他者を知覚しないところに「意味」はない。